今朝は泣いた人、 涙を流した人の話です。 わたしたちも日常生活の中で涙声になったり、 涙する時、 涙にくれることだってあります。 きょう取り上げる 「哀歌」 の作者エレミヤもよ く涙を流した人でした。「70人訳」 (ギリシャ語に訳された旧約聖書) には、この書の初め に、 「イスラエルが捕え移され、 エルサレムが荒れはてたとき、 エレミヤは座して泣き、 エ
ルサレムのために嘆いてこの哀歌を以て悲しみして言う」 と付記されています。 エレミヤ の涙は同胞を慮って溢れ出てきたものだったのでしょう。
エレミヤは神から離れてしまっている同胞の罪を責め、 悔い改めて神に立ち返るように勧 めてきました。 悔い改めなければ国は滅ぼされてしまうことを民に伝えるのです。 民はエレ ミヤのことばを退けます。 聴き従うことをしません。 エルサレムの都はバビロンに滅ぼされ てしまいます。 このことは主なる神がエルサレムの都を敵の手に渡されたから起こ ったこと
でした。 「主は敵のようになって、 イスラエルを滅ぼし、 そのすべての宮殿を滅ぼし、 その とりでをこわし、 ユダの娘の上に憂いと悲しみとを増し加えられた」 (哀歌2: 5)。 そうい う中で、 エレミヤは涙を流すのです。 泣きながら祈るのです。 「わが目は涙のためにつぶ n... わが民の娘の滅びのために、地に注ぎ出される」 (哀歌2:11.1:16)。
「主よ、わが悩みを顧みてください、 敵は勝ち誇っていますから」 (哀歌19, 11,20, 21).
エレミヤは主なる神の愛と真実を信頼していました。 「主のいつくしみは絶えることがな く、そのあわれみは尽きることがない。 これは朝ごとに新しく、 あなたの真実は大きい」( 歌3:22) 神は民を愛しておられるのだからと、 エレミヤは神の約束、 神のことばを信 じて祈るのです (哀歌1:10.21)。 どのような困難な事態になっても 「祈る人」は幸 せです。
その人は「パカの谷(文語訳は涙の谷) を通っても、そこを泉のあるところとしま す」 (詩篇 84: 6)。 エレミヤは涙の祈りの中で、 滅んでいく民のために命を投げ出して救
ってくださるお方が来ることを知り、 証します。 (エレミヤ30:21)。 そのお方がこの世に来られた時、 人々は 「エレミヤの再来」 と受け止めました (マタイ1
6:14)。 エレミヤは民のために泣いた人ですから、 イエスも人々に接して涙を流された ことが多くあったのでしょう。 主なる神から離れて歩んでいる民、 神の招きを拒んで滅びに 向かっている民の姿を見て、 イエスはどんなにか悲しまれたことでしょう。(ルカ13:3 4,35) イエスは涙を流されました。 (ルカ19:41-46) そしてゲッセマネで祈り、
十字架の上で祈られました。 「父よ、彼らをおゆるしください。 彼らは何をしているのか、 わからずにいるのです」(ルカ23:34)。 それだけでなく天にお帰りになられても、わた したちのためにとりなしの祈りをしておられるのです。 (ヘブル7:22-25) わたしたちは常に主イエス・キリストの前に座して祈り、 主イエスと交わり、 「キリスト・ イエスの心を心と」
(ピリピ2:5文語訳) して生活しましょう。