「牧場(まきば)の羊」 エゼキエル書34章11~16節

 聖書には羊のことがよくでてきます。 ダビデは少年の頃、 羊を飼っていました。 (サムエ ル上16:11) 羊飼いは羊を牧草のあるところへ誘導して飼育します。 また、 羊を狙う獣 ら羊を守ります。 ダビデはししやくまと戦って羊を守りました。 (サムエル上17:33 -36) 羊は羊飼いなしでは生きることができません。 羊を飼う経験を持つダビデは、自分 にとって神は羊飼いであると告白しています。 「主はわたしの牧者であって、 わたしには乏 しいことがない」(詩篇231) 羊を飼ったことがあるダビデだから言えたのでしょう。 エゼキエル書の中でも、 民と指導者、 民と神との関係が羊と羊飼にたとえられています。 「人の子よ、 イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。 預言して彼ら牧者に言え、 主なる神はこう言われる・・・」 (エゼキエル34:2) エゼキエルは捕え移されたバビロンの地で、預言者として活動します。 エゼキエルは神の ことばを預り、それを語りました。 エゼキエル書34章は、 民の指導者に向かって語ったも のです。 神は指導者たちに民を任せていました。 任された指導者たちは、おいしいものを食 べ、毛織物をまとい、贅沢な暮らしをして民の世話をしませんでした。 「群れを養わない。 あなたがたは弱った者を強くせず、病んでいる者をいやさず、傷ついた者をつつまず、迷い出た者を引き返えらせず、うせた者を尋ねず、 彼らを手荒く きびしく納めている」 (エゼ キエル34: 3-4) 指導者たちは民を養う者、 羊飼であるのに自分に都合のよい生活をして民をないがしろ にしました。 牧者として羊である民を買うことをしませんでした。 羊は野獣の餌食になって しまいました。「彼らは牧者がないために散り、 野のもろもろの獣のえじきになる。 わが羊 は散らされている。 彼らはもろもろの山と、もろもろの高き丘にさまよい、 わが羊は他の全 に散らされているが、これを捜す者もなく、 尋ねる者もいない」 (エゼキエル34:5 6) 羊であるわたしたちは真の牧者、 羊飼の下で生活すべきです。 散らされた羊を尋ねて捜し出し、 集め、 養うために真の牧者である神が人となってこの世 に来てくださったのがイエスです。 (エゼキエル34:11.23) わたしは彼らの上にひ とりの牧者を立てる」 (エゼキエル34:23) とエゼキエルによって語られ、 ヨハネによ る福音書には「わたしはよい羊飼いである」 とおっしゃったイエスのことばが記されていま  (10:11) よい羊飼が到来した目的は「羊に命を得させ、 豊かに得させるため」( ハネ10:10) です。 「よい羊飼は、 羊のために命を捨てる」 (ハネ10:11) とおっ しゃっています。 イエスはこのままでは滅んでしまう羊、すなわち民のために十字架の上で 命を捨てられました。 それだけでなく死を打ち破って復活し 永遠の契約の血による羊の大 牧者」 (ヘブル13:20) なられました。 わたしたちはこの大牧者の下に身を寄せる者ですますます牧者と心を交わし、 牧者の牧 場の羊として養われたいものです。