心の中に、相反する思いが起り、その選択に迷うことがあります。その時は苦しみ悩みます。苦悩が生まれます。わたしたち同様に主なる神も苦悩なさることを、預言者ホセアは自分の体験によって知り、そのことをわたしたちに証しています。悩む神、苦しみ悩む神、わたしたちの周囲にそのような神がいるでしょうか。「神は苦しみ悩むことなどしません」と言う返事が聞こえてきます。聖書の神は悩む神なのです。悩み苦しむ神なのです。ホセア書の11章に、「あなたを捨てることができようか」、「あなたを渡すことができようか」、「・・・できようか・・・できようか」(11:8)と繰り返し記されています。神の苦悩のことばです。
預言者ホセアは北王国イスラエルで活動した人です。ホセアは神のことばに従ってゴメルと結婚しました。ゴメルは三人の子を生みますが、二番目と三番目はホセアの子ではないと言われています。ゴメルは家を出て娼婦になります。そのようなゴメルを「受け入れ愛するように」と、主なる神に言われた(ホセア1:2,3:1)ホセアは、「銀十五シケルと大麦一ホメル半とをもって彼女を買い取った」(ホセア3:2)のです。ホセアにとって大変なことだったでしょう。ホセアはこのような自分の体験によって、主なる神がどれほどご自分の民を愛しておられるのかを知るのです。「あなたは再び行って、イスラエルの人々が他の神々に転じて、干しぶどうの菓子を愛するにもかかわらず、主がこれを愛せられるように、姦夫に愛せられる女、姦淫を行う女を愛せよ」(ホセア3:1)。愛するが故に悩み苦しむのです。
神の民は神から離れ、「干しぶどうの菓子を愛する」人、すなわち偶像に仕える人になってしまったのです。エジプトの地、奴隷の家から救い出してくださったお方のほかに、なにものをも神としてはならないのに、偶像を愛し、偶像に仕える罪の生活をしているのですから、神に裁かれ滅ぼされて当然でしょう。なのに神は「できない」とおっしゃるのです。「あなたを捨てることができようか・・・渡すことができようか・・・できようか・・・できようか・・・激しい怒りをあらわさない・・・滅ぼさない・・・滅ぼすために臨むことをしない」(ホセア11:8-9)。愛なる神の愛するがゆえの苦悩です。その神に変化が生じました。「わたしの心は、わたしの内に変り、わたしのあわれみはことごとくもえ起っている」(ホセア11:8)。聖書協会共同訳では、「心は激しく揺さぶられ憐れみで胸が熱くなる」と訳されています。
主なる神のあわれみを実現するために主イエスはこの世に来られたのです。イエスはホセア書を引用して(ホセア6:6)そのことをはっきりと語られました。「わたしが好むものは、あわれみであって、いけにえではない」(マタイ9:13)がそれです。そして「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」と、来臨の目的を語られました。確かに罪人であるわたしたちに、イエスは仕え、十字架で死んで、わたしたちを新しく造り変えてくださいました。造り変えられたわたしたちも、イエスのようにあわれみをもって人に接し、新しく造り変えられる恵みへと導いていきましょう。