水で思い出すのは「岩から水が出た」できごとです。「シンの荒野を出発し、旅路を重ねて」いた神の民イスラエルの人々は、水を手に入れることができませんでした。主なる神は岩から水を出して民に飲ませました。(出エジプト記17:1-10、民数記20:2-13、Ⅰコリントの手紙10:1-5)もう一つは、イエスが祭の終わりの大事な日に、叫んで言われたことばです。「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」(ヨハネ福音書7:37-39)。
さて、預言者ヨエルは、神の民に、罪を悔い改めて神に立ち返ることを説いた人でした。民の心は神から離れてしまっていました。このままだと、強大な敵国に攻め込まれて滅ぼされてしまうことを、ヨエルは民に警告するのです。ヨエルはいなごの大群の襲来を見て、そのことを説いたのです。「かみ食らういなごの残したものは、群がるいなごがこれを食い、群がるいなごの残したものは、とびいなごがこれを食い、とびいなごが残したものは、滅ぼすいなごがこれを食った」(ヨエル1:4)。いなごによって畑は食い尽くされてしまうのです。周囲に起るできごとを見て神の御心を知るようにしたいものです。
ヨエルは自分たちの国が敵国に滅亡させられることだけでなく、「主の日」が来ることも語っています。(ヨエル1:15,2:1,11)主の日とは世の終りの時の神の審判であり、同時にその日は救いの完成の日でもあるのです。だから、悔い改めて神に「帰れ」(ヨエル2:12-13)と、ヨエルは民に迫ります。(ヨエル2:12~)いなごを通して、ヨエルは敵の侵入から主の日まで見せられていたのです。
ヨエルは、主の日が来る前に、すべての人に聖霊が注がれると語っています。「わたしはわが霊をすべての肉なる者に注ぐ」(ヨエル2:28)。あわれみの神がすべての人に聖霊を注いでくださるのです。これを実現するためにこの世に遣わされたのがイエスです。「わたしを信じる者は・・・その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」とイエスが語られた水とは聖霊のことです。(ヨハネ福音書7:39)聖霊が注がれるためには罪が処分されなければなりません。だから、悔い改めることをせず、罪を犯し続けているわたしたち人間のために、わたしたちの罪を背負って十字架の上で神に罰せられたのです。イエスは死んで、甦って、天に昇り、神から約束のものを受けて悔い改める者に注がれたのです。それが使徒行伝2章です。ヨエル書の実現です。(2:28~)注がれた聖霊、すなわち命の水は、その人を生かし、その人から川のように流れ出て、周囲の人々をも生かすのです。弟子たちがそうであり、教会の人々がそうでした。そのことは使徒行伝で証されています。
パウロは教会に命じています。「御霊によって歩きなさい」(ガラテヤ5:19)。わたしたちも命の水を飲み、その腹から生ける水が川となって流れ出る歩みをしていきましょう。