結婚式で、これから夫婦として歩み始める二人は、互いに約束します。 「あなたはその健やかな時も、病む時も、富める時も、貧しい時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、 い のちの限りこの人と共に生きることを約束しますか」 「はい、 約束します」。 このような約束を交し て一緒に歩く姿を思い起させる聖句があります。 アモス書3章2節、3節です。 「わたしはただ、あ なただけを知った・・・ ふたりの者がもし約束しなかったなら一緒に歩くだろうか」。 アモス書の「ふたり」 は、 神とイスラエルの民です。 神がエジプトの地から救い出された民です。 救い出された民はシナイ山で、 結婚式を挙げるかのように、一緒に歩む約束をして歩み始めたのです。 ところが、 イスラエルの民は神から離れ、 神を捨ててしまったのです。 アモスは神を捨ててしまった同胞に、 神の裁きを語りつつ悔い改めて神に帰るように語った預言者です。 アモスは農夫でした。 羊も飼っていたようです。 (アモス714-15) 彼は「預言者でもなく、 また預言者の子でもない」 と祭司アマジャに答えています。 (アモス7:10-14) 神はどんなに 小さな者であっても神と共に歩んでいる者を召し、用いなさるのです。 語るべきことばを神から預 かったアモスは、出て行って神のことばを語り伝えました。 わたしたちは自分が小さく見えても弱い者であっても、役に立たないように思えても、 主なる神のことばに従いましょう。 神はご自分 の業のためにわたしたちを用いられるのです。 神は心の中に思っていることを隠さずアモスに知らせます。 「まことに主なる神はそのしもべであ る預言者にその隠れた事を示さないでは、 何事もなされない」 (アモス37)。 一緒に歩む者に 神は隠し事をなさいません。 神の思いを知らされたアモスはどのような行動をおこしたのでしょう。 「主なる神よ、どうぞおゆるしください」 (アモス72)、 「主なる神よ、どうぞ、やめてください」 (アモス75)。 これはアモスのとりなしの祈りです。 神に背いて罪を犯す民とその民を裁いて する神との間に立ってとりなしました。 すると主なる神は思い返されるのです。 わたしたちもとりなしの祈りによって助けられ救われてきました。 それを体験してきたわたしたちです。 これからは とりなしの祈りをする者になりましょう。 罰することを思い返された神のところから遣わされたイエスは、神に背いている私たちと神との 間に立ってとりなしてくださいました。 わたしたちの罪を背負い、イエスがわたしたちの代りに、 神に罰せられるようにして、 「父よ、 彼らをおゆるしください」(ルカ福音書23:34) ととりな してくださいました。 イエスのこのとりなしによって、わたしたちと神とを隔てていたものがなく なりました。 「すると見よ、 神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた」 (マタイ福音書27:51) ここに、わたしたちが神と一緒に歩む道が開かれたのです。 一緒に歩みながら 「インマヌエル」、 「神われらと共にいます」 (マタイ福音書1:23) 救いを深く体験していきましょう。