自分が相手にしたように、自分も同じようにされる。誰に。神に、です。行ったことへの報いです。審判と言ってもいいでしょう。これが題の「したようにされる」と言うことです。新約聖書に「負債のある者」たちの話が記されています。(マタイ福音書18:21-35参照)多額の負債を免除してもらった人が、少額を貸していた仲間に出会った時、返済を迫り、直ちに返済できないことを知ると、その仲間を投獄してしまったのです。多額の負債を免除してもらった人のしたことが、負債を免除してあげた人の耳に入った時、その人は怒って「わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか」と言って負債を免除してあげなかった人を投獄してしまいました。
エドム人は何をしたのでしょう。オバデヤ書には「オバデヤの幻、主なる神はエドムについてこう言われる・・・わたしはあなたを国々のうちで小さい者とする。あなたはひどく卑しめられる・・・あなたを引きおろす」(1~4)と書かれています。エドム人はヤコブの兄さんであるエサウの子孫です。ユダヤ人はヤコブの子孫ですから、ユダヤ人とエドム人は兄弟であると言ってもよいでしょう。イエスが生まれたときのヘロデ王、そしてその孫であるヘロデ王、「ヨハネの兄弟ヤコブをつるぎで切り殺した」ヘロデもエドム人でした。(マタイ福音書2:1-3、使徒行伝12:1-5)このエドム人はユダがバビロンに苦しめられている時、そのことを笑い、喜びました。それだけでなく、バビロン軍と同じことをしました。町に入って財宝を持ち去り、逃げようとする者を殺し、あるいは捕えてバビロン軍に渡しました。(8~14)。そのようなエドム人を主なる神は罰するとおっしゃるのです。預言者オバデヤによって神の審判が告げられるのです。「あなたがしたようにあなたもされる」(15)。
主なる神はエジプトから救い出したイスラエルの民に、「あなたがたは寄留の他国人を苦しめてはならない」と語られたことがありました。なぜなら、彼らは「エジプトの国で、寄留の他国人であったから」です。(出エジプト22:21)そこで辛い苦しい大変な生活を経験したからです。これが主なる神の御心なのです。
その主なる神は罰するだけで終る神ではありませんでした。回復してくださるのです。回復してくださる神でもあるのです。「こうして救う者はシオンの山に上って、エサウの山を治める。そして王国は主のものとなる」(21)と回復の約束をしています。国の回復、そこで生活する民の回復、すなわち神の愛に応える神の民として回復されるのです。その約束の実現のために遣わされたのがイエス・キリストです。イエスは「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイ5:44)説かれました。そして、十字架の上で「彼らをおゆるしください」と、命を投げ出してとりなしの祈りをしたのです。(ルカ23:31-34)このイエスによって「神の愛に応える」歩みができるのです。そのような人として回復するのです。(ローマ3:31,8:4参照)それだけでなく、その者たちが住む国、すなわち神の国、永遠の都を回復してくださるのです。
イエスの「いのち」をいただいたわたしたちも「敵を愛し、迫害する者のために祈り」、主なる神の栄光を顕していきましょう。
(※写真…教会員撮影)