「愛されて愛する」ミカ書6章6節~8節

 愛されているから愛する、愛されていることがわかって感謝が溢れ、そして愛するのです。それが今朝の題です。そして、ここに「共に歩む」生活が生まれてきます。人が神と共に歩む、これを主なる神は神の民に求めておられることなのです。わたしたちにも、です。

 ミカの時代、神の民はどのような生活をしていたのでしょう。「彼らは田畑をむさぼってこれを奪い、家をむさぼってこれを取る。彼らは人をしえたげてこの家を奪い、人をしえたげてこの家を奪う」(ミカ2:2)。こうも書かれています。「そのかしらたちは、まいないをとってさばき、その祭司たちは価をとって教え、その預言者たちは金をとって占う」(ミカ3:11)。そのようなことをしていながら、神の民たちは、「主はわれわれの中におられるではないか、だから災はわれわれに臨むことがない」(ミカ3:11)と言っているのです。神から離れ、自分勝手に振舞い、「初めの愛から離れてしまった」(黙示録2:4)のです。

 神の民と言われたイスラエルの人たちは、エジプトの国で生活していました。「わたしは、エジプトの国からあなたを導きのぼり、奴隷の家からあなたをあがない出し、モーセ、アロンおよびミリアムをつかわしてあなたに先だたせた」(ミカ6:4)。エジプトでの奴隷の生活から救い出されたのです。よろずの民のうち、もっとも数の少ないものでした。神はその民を愛されたのです。「ただ主があなたがたを愛し・・・強い手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手から、あがない出されたのである」(申命記7:8)愛が民を救いました。主なる神が小さな民を愛し、愛しているから救い出したのです。救い出した神が救い出された民に求めたものは、「ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩む」(ミカ6:8)ことでした。愛していてくださる神に感謝し、神を愛し、神を愛するから、神と共に歩むと言うことです。しかし、民は神から離れてしまっていたために、神に罰せられます。でも、それで終りではありませんでした。人が神と共に歩み、永遠に神と共に生活することができるように救い主が生まれることをミカは民たちに伝えているのです。「しかしベツレヘム・エフラタよ、あなたはユダの民族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちからわたしのために出る」(ミカ5:2)

 イエスがお生まれになった時、東方からきた博士たちが問います。「ユダヤ人の王としてお生まれになったかたは、どこにおられますか」。その答えは、「ユダヤのベツレヘムです」。祭司や律法学者たちは、ミカ書5章2節のことばをもって答えました。(マタイ福音書2:4-6)イエスは人間の罪を背負って十字架にかかり、罪を処分して「海の深みに投げ入れて」くださいました。どのような人でも赦されるのです。(ミカ7:18-20)それだけでなく、イエスはもう一度この世においでになり(再臨)、平安と平和の世界を完成させてくださるのです。その世界で人は永遠に主なる神と共に歩み、神からの賜物によって豊かな生活を送るのです。(ミカ4:1-5)

 いつも「初めの愛」に立ち帰り、日々新しくなって神と共に歩み続けましょう。