「真ん中に立つ」ヨハネによる福音書20章19節~23節

 今朝は召天者記念礼拝です。ヨハネによる福音書20章19節を中心に「真ん中に立つ」と言う題でお話をします。イエス・キリストが弟子たちの中に立たれたのです。十字架の上で殺されたイエスが立っているのです。間違いなく殺されたイエスでした。「手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ」(ヨハネ福音書20:20)。弟子たちの中に立たれたイエスの手には釘の跡、脇腹には槍で刺された跡がありました。死んだイエスが、「今、ここに生きて立っておられる」と、ヨハネは証言しているのです。復活です。甦りです。これは、罪のゆえに死に支配されているわたしたちにとって福音です。「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげは、どこにあるのか」(Iコリント15:55)。

 イエス・キリストを信じて救われた人は必ず復活するのです。イエスは「死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた」(ヘブル2:14-15)わたしたちを解き放ってくださったのです。すでに召された方々は必ず復活し、わたしたちは再会するのです。弟子たちの中に、復活したイエスが立たれたと言うことは、わたしたちは死んで終ってしまうのではないと言うことです。

 地上に残された家族や人々にも目を向けましょう。当時の弟子たちは恐怖と不安と困惑との中にいたことでしょう。慕い、信頼し、頼っていたお方が殺されてしまったのですから。その弟子たちの前に立たれたイエスの、甦りの後の最初の一言は「平安」でした。(ヨハネ福音書20:21)イエスは生前、弟子たちに語られていました。「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える」(ヨハネ福音書14:27)。そのお方の「安かれ」の一声によって、弟子たちに平安が与えられました。神が「光あれ」と言われた時、「光があった」ように。(創世記1:3)

 どんなに恵まれ喜び安んじていても、する仕事がなく、存在の意義も使命も明らかでなければ安んじてはいられません。だからイエスは言われたのです。「父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」(ヨハネ福音書20:21)。イエスがなさった業をなし続けるために、わたしたちはこの世に遣わされたのです。父なる神がイエスを遣わされたように。使命あればこそ喜びをもって生きることができるのです。

 しかし、仕事が与えられてもそれを為し遂げる力、能力がなければ、安んじていることはできません。だからイエスは弟子たちに息を吹きかけて、「聖霊を受けよ」と言われたのです。(ヨハネ福音書20:22)聖霊によって仕事をし、使命を全うすることができるのです。「あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残る」(ヨハネ福音書20:23)と言う仕事、使命をです。聖霊によって罪のゆるしの自覚を与え、救いの確信にまで導くのです。何たる尊厳、厳かで心が引きしまります。

 召天された聖徒たちとの再会を待ち望みつつ、この世に残されているわたしたちは、主イエスから与えられている使命を全うする歩みをしていきましょう。しっかりと。