「良い知らせ」ナホム書1章15節

 今朝は、お話の題を「良い知らせ」にしました。ナホム書1章15節を中心にお話することにします。

 良い知らせは、それを伝える側にとって大変にうれしいことです。同時に、その知らせを受けとる側にとってはなおさらです。窮地に立たされている者であれば手をたたいて大喜びすることでしょう。

 ナホム書の「ナホム」は預言者の名前です。ナホムは「慰め」です。預言者ナホムはエレミヤと同じ時代の人です。このナホムは神の民であるユダの国の人々にとって「慰め」であったことでしょう。預言者ナホムは伝えています。「ユダよ、あなたの祭を行い、あなたの誓願をはたせ。よこしまな者は重ねて、あなたに向かって攻めてこないからである」(ナホム1:15)。ユダに攻勢をかけ、悩まし、苦しめてきた敵が攻めてこないのです。うれしい知らせです。そのように語られる神は、恵み深く、なやみの日の要害であると記されています。「主は恵み深く、なやみの日の要害である。彼はご自分を避け所とする者を知っておられる」(ナホム1:7)。「要害」と言うのは、外敵を防御・攻撃するために築造する堅固な建造物のことです。「とりで」です。主なる神はそう言うお方なのです。神を避け所として、そこへ逃げ込む者を、神は守り救ってくださるお方なのです。ヒゼキヤ王の体験はそのことを証しています。アッスリヤの大軍に攻め込まれた時、敵からの手紙を受け取ったヒゼキヤは「主の宮にのぼっていって、主の前にそれをひろげ」て、ひたすら祈りました。ただただ神を避け所として神に祈りました。すると不思議なことが起りました。「人々が朝早く起きて見ると、彼らは皆死体となって」いたのです。その数、18万5千人です。驚くべきことが起きたのです。(イザヤ36章~37章参照)わたしたちの神は「恵み深く、なやみの日の要害」です。わたしたちは神を避け所として、大胆にそこへ逃げ込むべきです。

 ユダの国に敵が攻めてこないのはどうしてでしょう。こう記されています。「たとい彼らは強く、かつ多くあっても、切り倒されて絶えはてる」(ナホム1:12)。そして、「ニネベは滅びた」(ナホム3:7)。ニネベはアッスリヤ帝国の都です。預言者ヨナが遣わされたところです。ヨナによって主なる神のことばが伝えられた時、ニネベの人々は悔い改めました。ところがその時の人々が世を去って、時間が過ぎてゆくとだんだん高ぶってきて、主なる神から離れてしまいます。そして神の民であるイスラエルを攻撃し、ユダを脅かすのです。そう言う民を、神は裁かれるのです。滅ぼされるのです。これはユダの国の人々にとって良い知らせです。

 この神の裁きは、神を離れず神を畏れて神と共に歩んでほしいと言う、主なる神の人々への語りかけでもあるのでしょう。このユダの国への良い知らせは、ユダのことだけに止まらず、イエス・キリストのことを言っているようです。イエス・キリストによって、人は新しく造られ、神を畏れ神と共に歩むことができるのです。この知らせを持って世に遣わされたイエスの弟子たちは「良きおとずれを告げる者の足」になりました。(ローマ10:14-15、ナホム1:15参照)

 ナホムがユダの国の人々の慰めとなったように、わたしたちも人々の慰めとなる歩みをしていきましょう。