「終りの日」ゼパニヤ書1章2節-3節

 終りの日とはこの世の終り、歴史が閉じられる日のことです。最後の審判、神がこの世を裁く日のことです。ゼパニヤ書の「主の日」や「その日」(1:7,9,10等)はそのことを指し示している言葉です。「わたしは地のおもてからすべてのものを一掃する」(ゼパニヤ1:2)

 ゼパニヤはユダの国がバビロン帝国に滅ぼされ、多くの人々がバビロン軍に捕えられて連れて行かれる不幸な出来事が迫っている時に、神の言葉を預かって民に語った人です。ゼパニヤは民に伝えます。「わたしは地のおもてからすべてのものを一掃する」。

 人は神に仕える者として神に造られました。神を愛し、神と交わり、他者を愛し、他者と交わり互に仕えて共に生活するのが人です。ところが、神を捨て、神から離れて偶像へと堕ちてしまいました。神の民であれ他国の者であれ、主なる神はそのような者を地のおもてから断ち滅ぼされるのです。(ゼパニヤ1:3)一掃されるのです。「すべてのものを一掃する」(1:2)。「人も獣も一掃し、空の鳥、海の魚も一掃する」(1:3)。この主なる神の最後の審判、主の日を指し示すようにしてユダの国は滅亡したのです。偶像礼拝者は自らを誇って他者をあざけります。(ゼパニヤ3:8)創造者にして主なる神を拝し、その神に仕える人とならなければ、人は偶像礼拝者になってしまうでしょう。

 主なる神に裁かれる民の中に神を信じて生きる人たちを、少数ではありますがそういう人たちを、神は残しておられました。「わたしは柔和にしてへりくだる民を、あなたのうちに残す。彼らは主の名を避け所とする。イスラエルの残り者は不義を行わず、偽りを言わず、その口には欺きの舌を見ない」(ゼカリヤ3:12-13)。残された「柔和にしてへりくだる民」を通して、神は神を信じ、神に仕える人に、人々を造り変えようとしておられるのです。「残り者」(3:13)は次第に少なくなって終に一人になってしまいました。その一人というのは「わたしは柔和でへりくだった者である」(マタイ11:28)とおっしゃったイエスです。同胞に踏みつけられても耐えて十字架の道を歩まれました。十字架で死なれたイエスによって人は造り変えられ、主なる神を礼拝し、そのお方に仕えて生活するようになるのです。

 十字架で死に、甦って生きておられるイエスは、信じる者の内に住んでくださいます。「イスラエルの王なる主はあなたのうちにいます」(ゼパニヤ3:15,17,5)。内住の主は「王」なるお方です。(マタイ2:1-6,27:11参照)このお方を信じる者たちに勝利を与えてくださる勇士です。わたしたちはイエスによって神を礼拝する人に造り変えられました。王なる主はわたしたちの内に住んでくださっています。内住の王の力によって、わたしたちは常に勝ち進むのです。

 王なる主は「天の雲に乗って」(マタイ26:64)おいでになります。終りの日です。最後の審判の「その日」です。神の裁きの日は同時に永遠の救いの時です。神を礼拝せず、神と共に生活しなかった人々は滅ぼされ、神と共に生活していた人々は携え挙げられ、王なる主イエスの国、神の国に迎え入れられるのです。