聖書がわたしたちに示している神は「愛の神」です。マラキ書には、「わたしはあなたがたを愛した」(1:2)と、神のことばが記されています。神に愛されている民は、愛してくださる神にどのような態度をとったのでしょう。「神に仕える事はつまらない・・・今われわれは高ぶる者を祝福された者と思う。悪を行う者は栄えるばかりでなく、神を試みても罰せられない」(マラキ3:14-15)。民は愛してくださる神に逆らったのです。神に対して民は不従順でした。にもかかわらず、神は民を愛し、神はこの書で、神の民に新たに約束をしてくださるのです。
神に愛されているのに、民は神に向かって「あなたはどんなふうに、われわれを愛されたか」と言うのです。「ささげ物」に関しても「なんと煩わしい事か」と言って、「奪った物、足なえのもの、病める物をささげ物として携えて来る」(1:13)のです。神殿を完成させて新たに歩みはじめた民でしたが、先祖たちと同じように不従順な生活をするようになってしまいました。主なる神の恵みを忘れ、神から心が離れてしまったからでしょう。あやまちに陥ることのないように、わたしたちは「受けた召しと選びとを、確かなものに」(2ペテロ1:10)しましょう。そのためにも「御言を・・・聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う」(ヤコブ1:21-25)歩みをしましょう。
神から離れた民を、神は愛しました。愛しておられるから、悔い改めて神に帰ることを、神は民に勧めるのです。「主なるわたしは変わることがない・・・わたしに帰れ」。(マラキ3:6-7)そして、神に従う者を主なる神が本当に祝福してくださるかを試してもよいと、主なる神が民におっしゃるのです。驚くばかりです。このようなことをいままで聞いたことがありません。主なる神の民に対する愛の深さ、大きさを思います。パウロが勧めるように、わたしたちは主なる神の恵みに与っているのですから、わたしたちの「からだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげ」(ローマ12:1)て、常に主なる神を霊とまこととをもって礼拝しましょう。(ヨハネ福音書4:23-24参照)
主なる神は民を愛しているからこそ、マラキを用いて民たちのために新創造の恵みを示し、その計画を伝達したのでしょう。「わたしはわが使者をつかわす。彼はわたしの前に道を備える」(マラキ3:1)、そして、「主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをつかわす」(マラキ4:5)が、それです。まもなく救い主をつかわす。しかし、その前に預言者エリヤをつかわすというのです。確かに預言者エリヤは来ました。そのことを証言したのがルカです。「彼はエリヤの霊と力をもって・・・逆う者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう」(ルカ福音書1:16-17)。バプテスマのヨハネのことをマラキは書いたのだと、イエスはおっしゃいました。(マタイ福音書11:9-14)バプテスマのヨハネが来るべきエリヤでした。
主なる神は旧約の終わりにマラキを通して、救い主による新創造の恵み、人は新しく造り変えられ、神に従い、神と共に歩んで祝福される世界を待望させました。神は民を、全世界の人を愛されておられるからです。ヨハネが生まれ、そしてクリスマスの出来事が起りました。「きょうダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった」(ルカ福音書2:11)。