「歩み直し」マタイによる福音書2章13節~15節

  「きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生まれになった」(ルカ福音書2:11)。これがクリスマスです。生まれた救主はイエスと名付けられました。大人になられたイエスは、わたしたちの罪のために十字架に架けられたのです。わたしたちのかわりにわたしたちの罪を背負い、神に罰せられたのです。だから、わたしたちは神に罪をゆるしていただき、神の救いの恵みに与かることができるのです。十字架のイエスの死は、わたしたちの代償となりえるものだったのです。

 マタイはヨセフ家族がエジプトへ逃げたことを記しています。(2:13-15)幼な子イエスがヘロデ王に殺されそうになったからです。エジプトの地を選んだのはヨセフたちではありませんでした。「主の使い」がエジプトへ逃げるように指示したからです。エジプトへ下ったヨセフたちはヘロデが死ぬまで、命をねらっていた人々が死んでしまうまでそこに止まって生活しました。(マタイ福音書2:19-21)それは、旧約聖書の預言者ホセアによって語られた主なる神のことばが成就するためだったと、マタイは受け取っています。「エジプトからわが子を呼び出した」(マタイ福音書2:15、ホセア11:1)。ですから、マタイはヨセフ家族のエジプト行きとイスラエルへ帰る指示が主なる神から出ていることを明確に証しているのです。

 「エジプトからわが子を呼び出した」のホセア書の聖句は、エジプトで生活していたイスラエルの人々を、主なる神が救出した出来事、歴史的出来事である「出エジプトを指して語られたものです。しかし、「エジプトからわが子を呼び出した」の句が成就したと記したマタイは、イエスの歩みも「出エジプト」から始められたことを証言しているのでしょう。イスラエル人の歩みは失敗の連続でした。主なる神のことばに従うことができませんでした。しかし、イエスは十字架の死に至るまで、主なる神のことばに従い、罪を犯さず、「おのれを低くして死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられ」(ピリピ2:8)たのです。主なる神に従順でなく、罪を犯してしまうイスラエル人の歩みを、歩み直すようにして、イエスは主なる神に従い抜いて、罪のないイエスが、罪を犯してしまった民の身代わりとなって主なる神の罰を十字架で飲みつくしてくださったのです。イスラエル人のためだけでなく、わたしたち、全人類のためにです。

 「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6:23)と記されています。罪のないイエスを死の世界に閉じ込めておくことはできません。イエスは、復活しました。甦りました。そして、イエスの十字架は自分の罪のためであった、自分の身代りであったと信じる者に救いの道を開いてくださったのです。「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていてわたしを信じる者は、いつまでも死なない」(ヨハネ福音書11:25)。「エジプトからわが子を呼び出した」を成就するために、「きょうダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった」のです。それがクリスマスです。主なる神に感謝し、わたしたちをもエジプト(世)から呼び出して(救って)くださった主なる神に、ますます従順になりましょう。