今朝は、マタイによる福音書の「しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」(26:54)の御言葉に注目しながら、イエスの生涯を思い巡らしてみようと思います。題を「決意」にしました。イエスの決意です。
マタイの福音書を読んでいくと繰り返し出てくることばがあることに気付きます。「主が預言者によって言われていることの成就するためである」がそれです。マタイによる福音書を開くと、イエスの誕生が記されています。主の使いがヨセフにマリヤを妻として迎えるように告げます。そして、生まれた子にイエスと名付けるように命じます。これらのことが起こったのは、「見よ、おとめがみごもって男の子を生むであろう」と主が預言者によって言われたことの成就するためであったと言うのです。(1:18-23)ヨセフがマリヤと生まれた子を連れてエジプトへ逃亡したことも(2:13-15)、ヘロデがベツレヘムとその付近の地方とにいる二歳以下の男の子をことごとく殺したことも(2:16-18)、預言者によって言われたことの成就であると、マタイは記しています。ヨセフたちがエジプトから帰って来てナザレに住んだことも、預言者たちによって言われたことの成就でした。(2:19-23)ナザレから海辺の町カペナウムに行ってそこに住まわれたのも、預言者によって言われたことばが成就するためでした。(4:12-17)イエスは熱病の人をいやし、悪霊につかれた人たちをもことごとくおいやしになられましたが、病人のいやしもまた、預言者によって言われたことばが成就するためでした。(8:14-17)そして十字架の死まで続いていくのです。生まれてから十字架までの一つ一つが、主が預言者によって言われたことの成就なのです。
イエスは「律法や預言を・・・成就するためにきたのである」(マタイ福音書5:17)と自覚されていました。マリヤから生まれたイエスは、成長しながら自覚するようになっていったのでしょう。そして、旧約聖書の預言者によって語られたことばに導かれるように歩みながら、自分が生まれた目的、何をするために生まれたのかを、預言者によって語られた主なる神のことばから受け止めたのでしょう。人々がイエスを捕えにきた時、剣を抜いてイエスを守ろうとした弟子を止めて、「イエスは彼らに言われた」のです。「しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」。(マタイ福音書26:47-56)このことばは十字架に向かうイエスご自身の意思表示であるといえましょう。イエスご自身が十字架の道を選び取られたのです。十字架の死を避けていけない。それから逃げてはいけない。十字架の死なしには、あなたがたの、そして全世界の人々の新創造、新しく造り変えられて主なる神の永遠の祝福に与ることはできないのだから、わたしは死にます。
これが十字架なのです。イエスの十字架の死です。この十字架の死だから、わたしたちを造り変えることができたのです。