わたしたちは変わることができます。できることなら自分を変えたいと思っている人がどんなに多くいることでしょう。今朝はひとりの女性を取り上げます。
ベタニヤの村、ここは「イエスが死人の中からよみがえらせたラザロのいた所」(ヨハネ福音書12:1)で、そこに住むシモンの家でのことです。食事に招待されたのでしょう。イエスと弟子たちが「食卓についておられた」と記されています。(マルコ福音書14:3)そこで出来事が起きました。「ひとりの女が非常に高価で純粋なナルドの香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、それをこわし、香油をイエスの頭に注ぎかけた」のです。「ナルドの香油」は、たいそう高価なものでした。当時の女性たちは自分の結婚のためにこの香油を準備していたようです。その香油を惜しげもなく「イエスの頭に注ぎかけた」のです。大事にしていたものを惜しげもなく注いでしまいました。このお方のために用いたい、人がどう思うと、人に咎められようとそうせずにはおられないと行動をおこしたのです。「自分を捨てる」とはこういうことなのでしょう。自分を捨てなければこういうことはできないでしょう。ナルドは大事、けれどもそれ以上にイエスが大事、イエスを第一にして生きる人に変えられたということでしょうか。マルコはイエスのことばを記しています。「だれでもわたしのために、また福音のために・・・捨てた者は、必ずその百倍を受ける・・・きたるべき世では永遠の生命を受ける」(10:29,30)そして、「自分を捨て・・・わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者はそれを救うであろう。人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」(8:34-36)
「わたしのため、また福音のため」とイエスはおっしゃいました。わたし、すなわち福音ということでしょう。イエスは福音なのです。イエスは「良きおとずれ」なのです。イエスは弟子たちを愛し、ベタニヤの女性を愛し、人々を愛し、全世界の人々を愛して十字架の道を選びました。そしてすべての人の罪を背負って死んでくださいました。神から離れ滅びるしかないわたしたちのために自分を捨て自分の命までも捨ててくださったのがイエスです。そのイエスの十字架の死によってわたしたちは、新しく造り変えられ神の子とされました。神を第一にして生きる人に変えられました。イエスによって「ナルドの香油を注いだ女性」も変えられたのです。彼女を愛し、自分を捨ててくださったお方によって、そのお方と同じ生き方、歩みをする人に変えられました。イエスのためなら、自分を捨て、ナルドの香油を惜しげもなく注ぎかけることができました。しかし、「0(ゼロ)」になってしまうのかというと、そうではなく、そういう人は「必ずその百倍を受ける・・・きたるべき世では永遠の生命を受ける」とイエスはおっしゃいました。なんとすばらしい祝福された生涯でしょう。
イエスによって変えられたわたしたちも、行動によって福音(イエス)はこういうものなのですと教え、周囲の人もまた変えられていく歩みをしていきましょう。