「必要を満たすお方」ヨハネによる福音書6章28節~35節

 わたしたちにとってイエスは、わたしたちの必要を満たしてくださるお方です。イエスはわたしたちに対して、「わたしはこういう者である」とおっしゃっています。

 わたしたちにとってイエスは「命のパン」(ヨハネ福音書6:35)です。「わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない」と、イエスはおっしゃいました。イエスのもとに来て、命のパンとしてイエスを食べる(信じる)人は飢えることがなくかわくことがないのです。イエスによって養われ生かされるのです。

 わたしたちにとってイエスは「世の光」(ヨハネ福音書8:12)です。わたしたちにとってイエスは光なのです。イエスに従う者は闇のうちを歩くことがなく、命の光をもつのです。光に照らされて歩む人に恐怖はありません。見えるからです。

 わたしたちにとってイエスは「門」(ヨハネ福音書10:7-9)です。門は羊たちを守る小さな門のことです。人が横になって寝ると塞がってしまう小さな入り口の門のことなのだそうです。羊飼いは自分の体をそこに横たえて門を閉め、敵から羊を守るのです。門はわたしたちの「安全」なのです。わたしたちを守ってくださるのです。「わたしをとおってはいる者は救われまた出入りし、牧草にありつくであろう」。牧草は羊の糧です。わたしたちの衣食住に関して責任を持ってくださるのです。

 わたしたちにとってイエスは「よい羊飼」(ヨハネ福音書10:11)です。よい羊飼とは恵みとあわれみに満ちた指導者のことです。わたしたちにとってイエスは、わたしたちのために命を捨てる、命をかけてわたしたちを守ってくださるお方、行動してくださるお方なのです。

 わたしたちにとってイエスは「よみがえりであり、命」(ヨハネ福音書11:25)です。イエスは十字架で殺されましたがよみがえりました。このお方を信じる者は死に支配されない人生を生きることができるのです。「信じる者は、たとい死んでも生きる」のです。神が与えてくださる神の命、永遠の命を与えられるからです。死んだラザロを生き返らせたのは、イエスが「よみがえりであり、命である」ことを示すためでした。死の力を打ち破って、永遠の命を与えるのはイエスであることを教えたのです。

 わたしたちにとってイエスは「道」(ヨハネ福音書14:6)です。「だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」のですから、道はとても大事、大切なことです。登る道は違っても行き着く所は同じではないのです。だから「わたしによらないでは」とイエスはおっしゃるのです。この道しかないのです。この道を自分の足で踏んで行く時、わたしたちは天国、神の国へ行けるのです。

 わたしたちにとってイエスは「ぶどうの木」(ヨハネ福音書15:1)です。「まことのぶどうの木です。「たとえばわたしはぶどうの木である」とは言わないのです。「まことのぶどうの木」。ここでは「つながっていなさい」という言葉が繰り返しででてきます。(4,5,6,7)つながっていなければ実を結ぶことができないからです。わたしたちがつながれば、イエスもわたしたちとつながってくださるのです。「つながる」とはイエスの言葉がわたしたちのうちにとどまっているということです。(ヨハネ福音書15:7)つながってみことばに基づいて祈り求める時、なんでも与えられるのです。「なんでも」です。わたしたちは豊かに、実を結ぶことができるのです。