福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)はイエスが福音であることを証言しました。使徒行伝にはその福音が人から人へと手渡されていく様子が記されています。人から人へと伝播する時に必要になってくるのが力です。
力がなければ荷物を運ぶことができません。物を動かす時だけでなく何をするにも力が必要です。力がなくては何事もできません。力不足でした、成し遂げることができませんでした、で終ってしまいます。何をするにも力が必要です。イエスの死後、ユダヤ人を恐れた弟子たちは戸をしめて部屋に閉じこもっていました。震えて小さくなっていた弟子たちが立ち上がり一歩踏み出すことができたのは力を得たからです。力を得た弟子たちは変わりました。口を開いて語り始めたのです。「一同は・・・いろいろの他国の言葉で語り出した」(使徒2:4)。
弟子たちの力は与えられたものでした。「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて・・・わたしの証人となるであろう」(使徒1:8)。力は聖霊と結びついています。聖霊は弟子たちに力を与えてイエスの証人にします。弟子たちはイエスの証人になるといわれたように、確かに「語り出した」(使徒2:4)と記されています。でも自分勝手に、自分の思い付くことを語ったのではありません。弟子たちは自分の身に起っていることを聖書のことばによって受け止めたのです。「これは預言者ヨエルが預言していたことに外ならない」(使徒2:16)。イエスの出来事についても然りです。「あなたがたは彼(イエス)を不法の人人の手で十字架につけて殺した」(使徒2:24)、「あなたがたが十字架につけたイエスを」(使徒2:36)と指摘します。そして、ユダヤの人たちがイエスにしたことを聖書のことばによって受け止めて、このことは「神の定めた計画と予知とによる」(使徒2:23)ことを証言しつつ「神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである」(使徒2:24)、そして「神は主またキリストとしてお立てになった」(使徒2:36)ことを弟子たちは確信をもって語りました。弟子たちはそれで終りませんでした。弟子たちは人々に「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい」(使徒2:38)と勧めるのです。この勧めによって三千人がバプテスマ(洗礼)を受けたのです。すごい力です。
聖霊によって聖書のみことばが開かれて確信を持つ、ここに力が生ずる、起るのでしょう。この力がはっきり語らせる力となり、口を開かせてイエス・キリストを語る、証言する弟子たちに変貌させたのでしょう。弟子たち(教会)は実を結び、前進します。弟子たちは語り続けました。語ることを禁じられても語りました。「主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。そしてみ手を伸ばしていやしをなし、聖なる僕イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせてください」(使徒4:29,30)と、ペテロたちの報告を聞いた教会が祈ります。
「彼らが祈り終えると、その集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされて、大胆に神の言を語り出した」(使徒4:31)のです。
これは、わたしたちの教会の姿でもあります。