福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)は、「イエスは福音である」と記述し、使徒行伝はその福音が人から人へと伝達されていったことを語っています。使徒行伝の次の書であるローマ人への手紙は、福音が人々に(わたしたちに)与える神の恵みを証言しています。
ローマ人への手紙3章25節「神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供えものとされた」とあります。人は罪人です。すべての人は罪を犯したために神の栄光を受けられません。滅びるしかないのです。その滅びから罪人を救い出すために主なる神が手を差し伸べてくださったのです。それが「彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスのあがないによって義とされるのである」(ローマ3:24)です。義とされるとは救われることです。罪人が救われるためにイエスが十字架で死んでくださったのです。そのイエスの十字架は罪人にとって「あがないの供えもの」なのです。供えものと「された」(ローマ3:25)とありますから、主なる神がそのように決められたのです。神が決められたことですから、「イエスの十字架は罪人であるわたしの身代わりです。ありがとうございます」と、受け入れれば救われるのです。「義とされる」のです。その時から生ける神と交わりつつ歩む生活が始まるのです。「あがないの供えもの」を受け取ることが信仰なのです。
福音が与える神の恵みはそれだけではありません。「わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないため」に「キリストと共に十字架につけられ」(ローマ6:6)る恵みがあります。罪をゆるされても主なる神に従いきれない自分、「わたしたちの内の古き人」があります。「わたしたちの肉の内には、善なるものが宿っていない・・・善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がない」(7:18-19)のです。その古き人を十字架に、自分自身を十字架につける(ガラテヤ5:24参照)のです。その人の意志によってです。これが聖化、きよめです。聖化の恵みを与えられた人は、「御霊に導かれ」(ローマ8:14)る人となり、主なる神を「アバ、父よ」(ローマ8:15)と呼び、「神の子である」(ローマ8:16)あかしを内にもって歩む人になるのです。
福音の恵みはわたしたちのからだをあがなってくださるのです。「御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内で、うめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる」(ローマ8:23)。やがて主イエス・キリストは再びこの地上に来られます。その時「彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さる」(ピリピ3:21)のです。「被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる」(ローマ8:19)とあります。犬が尾を振りながら主人を見上げる目の中に「主イエスよ来たりたまえ」と待ち望むひらめきがある、牛がモーと鳴く声の中に、栄光の自由に入るうめきが聞こえると語られた方がいます。聞き流せません。
神が福音によってわたしたちに与えてくださる恵み、救いの恵みは広く、高く、深い豊かなものです。その恵みの中に入れていただいたわたしたちは、パウロの勧めに耳を傾けましょう。「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい」(ローマ12:1)