「力と知恵」コリント人への第一の手紙1章18節~25節

 福音が伝えられていくことによって救われる人たちが起きました。日を追ってその数は増していきました。しかし、福音を伝えることは簡単なことではありませんでした。

 コリント人への手紙を書いたパウロは、コリントの町で「一年六ヶ月の間ここに腰をすえて、神の言を彼らの間に教えつづけた」(使徒行伝18:10)のです。その町の会堂司であるクリスポとその家族が救われ洗礼を受けました。そして多くのコリント人も信じ救われていきました。同時にユダヤ人が抵抗してパウロをののしるのです。迫害されるのです。(使徒行伝18:5-6、12-17参照)それでもパウロが語ることをやめなかったのは、福音は神の力であることがわかっていたからです。パウロは告白します。「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには神の力である」(Iコリント1:18)そして、「ユダヤ人はしるしを請い、ギリシャ人は知恵を求める。しかし、わたしたちは十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストはユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシャ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである」(Iコリント1:23-24)

 十字架につけられたイエス(キリスト)に神の知恵はあらわされているのです。イエスは十字架につけられました。そして復活しました。このイエスの十字架と復活によって人は救われるのです。「キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないになられたのである」(Iコリント1:30)。

 キリストの十字架の死によって、人は「義」とされるのです。神の前に正しい者とされ、新しく造られるのです。(Ⅱコリント5:17参照)それだけでなく「聖」、その人を聖別し、イエスの心を心として生きる人にされるのです。(ピリピ2:3-5)さらに、イエスがもう一度この地上においでになられた時、からだが「あがなわれる」のです。イエスと同じ死に支配されない栄光のからだに変えられる、栄化されるのです。このことが世にとっては「愚か」としか思えない「宣教」によって起るのです。伝えられたものを聞き、聞いて信じる、そのことによって人は救われるのです。そこに神の力は十分に発揮されて人は変えられるのです。福音は神の力です。

 救われた人たち(教会)の中に、さまざまな問題が生じてきます。世にいる間は悩まされ、苦しむこともあります。その問題を解決させる、そこを乗り越えさせるのも知恵であるキリストです。神の前に座り祈るとき、イエスを思い起こされ、目が開かれ、自分たちの生活にイエスを当てはめてイエスが歩んだように導かれていくのです。

 コリントの教会の中に分派が起った時、「キリストはいくつにも分けられたのか」(Iコリント1:13)と語り、「みな語ることを一つにし、お互の間に分争がないようにし、同じ心、同じ思いになって、堅く結び合っていてほしい」とパウロは教会の人たちに勧めます。身体の弱い方、精神的に弱い人々への心くばりをするように勧めます。「この弱い兄弟のためにも、キリストは死なれたのである」(Iコリント8:11、問題の解決-8章、11章、12章参照)。

 この神の力と知恵によって、わたしたちもさらに前進することができるのです。