「新たな務」コリント人への第二の手紙5章20節、21節

 今朝は20節に注目しましょう。「神がわたしたちをとおして勧めをなさるのである」(2コリント5:20)。神が勧めをなさる、世に対してです。しかし、神が直接するのではなく、わたしたち、すなわち教会のわたしたちを「とおして」です。ですからわたしたち教会は「使者」なのです。5章18節には「和解の務をわたしたちに授けてくださった」と記されています。これはわたしたち教会の新たな「務」です。救われたから与えられたもので、救われる以前にはできなかったことです。

 コリント人への手紙を書いたパウロは、福音を語り伝えた人です。人は福音によって新しく造り変えられる、救われるからです(5:17参照)。新しく造り変えられるというのは、悪くなった部分を取り替えて新しくするというのではないのです。新創造のことです。

 人は神によって創造されました。神のかたちに似せて造られました(創世記1章参照)。しかし、罪によって神から離れてしまった人間を、神は再び創造、新しく造り変えようとしました。今度はイエス・キリストによって創造、つまり新創造しようとされたのです。この新創造は創造の時とは違って、神自ら人となって罪人の罪を負い、十字架の上で死ぬことによって実現しようとされました。「カルバリ山の十字架に付きて イエスは尊き 血潮を流し」と聖歌にある(新聖歌112番)イエスのことです。(ピリピ2:6-8参照)。イエスは罪を犯しませんでした。そのイエスがわたしたち人間の罪を負って十字架で死んでくださいました。このイエスの十字架の死は、わたしたちの罪のために、罪を知らないイエスが罪とされた出来事でした(2コリント5:21)。神はこの十字架で死んでくださったイエスによって人を造り変える、新創造されるのです。創世記の創造とは違うのです。神の新しい創造の業、新創造です。(2コリント5:17)。これが福音です。だからパウロは十字架につけられたキリストを宣べ伝えました(1コリント1:23、2コリント4:5)。

 人はこの宣教によって救われ、新しく造り変えられるのです。「神は宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである」(1コリント1:21)。これが神の救済方法なのです。ほかの方法を神は考えていません。すでにイエスは十字架で死んでくださっています。そこに救いがあるのです。救われるためには「信じ」なければなりません。信じるためには「聞く」ことをしなげればなりません。聞くためには「宣べ伝える者」がいなければなりません。宣べ伝えるには「つかわされる」ことがなければなりません(ローマ10:14,15参照)。ですから神はこの宣教を、キリスト・イエスにあって新しく造り変えられたわたしたち(教会)に「ゆだねられた」(2コリント5:19)のです。神は世に対して「わたしたちをとおして勧めをなさる」(2コリント5:20)のです。なんと大胆なことをなさるのでしょう。わたしたちはパウロと同じく「弱い者」(ローマ8:26,1コリント2:3、15:43、2コリント12:9参照)です。こわれやすい土の器です(2コリント4:7)。こわれやすい土の器に過ぎないわたしたちに、神は「和解の務を」授け、「和解の福音をゆだね」てくださいました。

 わたしたちは「使者」なのです(2コリント5:20)。主なる神がついています。窮しません、行き詰まりません、見捨てられません(2コリント4:8、6:4-8参照)。