ガラテヤ人への手紙を書いたパウロ(ガラテヤ1:1)は、どこへ行っても、どんな時でも福音を宣べ伝えました。福音が人を救うからです。だから語りました。迫害されても語り続けました。そして各地に教会が誕生しました。語り続けるパウロは、どのような時でも、自分を「キリストの僕」(2コリント6:8)としてあらわしました。これは教会、すなわちわたしたちの姿でもあります。
神は「宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされた」(1コリント1:21)とパウロは語りました。人は信じるだけでよいのです。信じることによって、信仰によって救われるのです。それはすでに「イエスの十字架」があるからです。行いによっては救われません。どんなに良いことをしても、すでに犯した罪は消えてなくなることがないからです。救いのよりどころは十字架、イエスの十字架にあるのです。
イエスの十字架は、罪人であるわたしたちを律法ののろいから贖い出して下さるもの(ガラテヤ3:13)なのです。「律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず行わない者は、皆のろわれる」のです(ガラテヤ3:10、申命記27章、28章参照)。イエスは罪を犯した者の身代わりとして律法ののろいを受けてくださったのです。「木にかけられる者は、すべてのろわれる」(ガラテヤ3:13、申命記21:23参照)。それは、「わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さ」(ガラテヤ3:13)るためです。これがイエスの十字架なのです。
イエスの十字架はわたしたちそれぞれが「共につけられた」十字架でもあるのです(ガラテヤ2:19-20)。「共につけられた」ということは、イエスの十字架はわたしたちそれぞれの十字架でもあるということです。それは、十字架でのイエスの死はわたしたちそれぞれの死であったということです。「わたしはキリストと共に十字架につけられた」(ガラテヤ2:19)
信じて救われた人は神と心が通うようになります。神に従うようになります。ところが従いきれないのです。パウロはそれを「内に宿っている罪」と告白しました(ローマ7:20)。「わたしの肉の内には、善なるものが宿っていない・・・善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がない・・・欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている・・・わたしは、なんとみじめな人間なのだろう」(ローマ7:16-25)。この救われて神と共に歩む者を悩ます「内に宿っている罪」が、イエスが十字架で死んでくださったときに、すでに死んでいるというのです。あの時、「わたしの内に宿っている罪」も死んでしまった、死んでいると信じて受けとることが大切なのです。それが「自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまった」(ガラテヤ5:24)ということです。信じて受けとることが十字架につけることなのです。この自覚的経験が「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤ2:20)という内住のキリストが自覚的な経験となってくるのです。これがイエスの十字架なのです。
イエスの十字架は罪人を救い、きよめてくださるのです。この十字架の恵みは罪人に真の自由を与えてくれるのです。キリストがわたしたちの内に生きていればこそ、情と欲(ガラテヤ5:24)とこの世(ガラテヤ5:14)から解放され、不自由な生活でなく「自由」にいきられるのです。