パウロは「のろい」と「共につけられた」すなわち磔殺というイエスの十字架の二つの側面を証言しました。イエスの十字架はわたしたちを救う福音です。人は福音を信じることによって救われます。わたしの罪の身代わりに死んでくださったと信じることによってわたしたちは救われるのです。
人が救われた時、この地上に教会が誕生しました。教会は神と共に歩む神の民のことで、聖書を教え、学んだりするところではありません。その神の民のことを、エペソ人への手紙でパウロは、わたしたちのために死んで甦り、今も生きておられる主イエス・キリストの「からだ」であると表現しています。イエスを死から甦らせた神は、万物をイエスの足の下に従わせ、イエスを万物の上にかしらとして教会に与えられたのです(エペソ1:20-22参照)。だからパウロは証言しています。「この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない」(エペソ1:23)
教会はキリストのからだです。教会のかしらは主イエス・キリストです(エペソ5:23参照)。ですから、イエスを信じて救われたひとりひとりは、キリストのからだであり、その肢体なのです。「あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である」(1コリント12:27)。ですから、そのからだである教会には、「すべてのものをすべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちている」(エペソ1:23)のです。生きておられる主イエス・キリストが満ちみちているからこそ、そこに在すキリストに触れることができるのです。交わることができ、深く知ることができるのです。教会に満ちみちているキリストは、「万物を足の下に従わせておられるお方なのです(エペソ1:22)。教会はキリストのからだですから、肢体がそれぞれいたわり合って歩むのです(1コリント12:8-24参照)。
この教会をつくるために、神は自ら人となってこの世に来てくださいました。それはわたしたちの罪の身代わりとなって十字架で死ぬためです。人は神に近づくことはできません。罪人だからです。両者を隔てるものが、人間の罪、わたしたちの罪なのです。その隔てを十字架は取り除いてくれたのです。「わたしたちは、御子にあって・・・その血によるあがない、すなわち罪過のゆるしを受けたのである」(エペソ1:7,マタイ27:50-51参照)。それだけでなく、死んで甦られたイエスとわたしたちとを、神は合体させてくださいました。「あわれみに富む神は、わたしたちを愛してくださったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを・・・キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである」(エペソ2:4-6)。そのことは、天地の造られる前から定められていたのです(エペソ1:3-5)。これはわたしたちの始めであり、教会の始めであるといえましょう。
イエス・キリストによる救いによって教会をつくる神の計画をわたしたちに実現させてくださったのが聖霊でした。聖霊によってわたしたちは覚醒し、罪を悔い改め、イエスを信じることができたのです。「あなたがたもまた・・・真理の言葉・・・救いの福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである」(エペソ1:13)。その上に聖霊はわたしたちの心の目を開きます。知識や理解が体験となるのです。そして神の十分な知識の中に誘って神との深い交わりをさせ、嗣業の栄光の富、絶大な神の力がわかるようになるのです(エペソ1:5-19)。聖霊はキリストのからだである教会をつくり、成長させ、完成に向かわせてくださるのです。
わたしたちは聖霊によって生き、聖霊によって進もうではありませんか(ガラテヤ5:16,25参照)