父なる神と子なる神と聖霊なる神によって、この地上に教会が誕生しました。教会は「キリストのからだ」であって「すべてものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ち満ちている」(エペソ1:23)とパウロは証言しています。この教会を通して見えてくるものがあります。
教会はキリストが「わたしのうちに生きておられる」(ガラテヤ2:20)生活、歩みをしています。そして、死を乗り越える復活の命によって歩んでいます。教会にとって「生きることはキリスト、死ぬことは益」(ピリピ1:21)なのです。その教会によって、人々は見えない神を見、知ることができるのです。「あがめられる」(ピリピ1:20)は拡大鏡で大きくして見やすいようにし、わかるようにすることです。
パウロが捕えられて投獄されたことが、一部でしょうけれど、つまずいた人がいたようです。また入獄したパウロをもっと苦しめようと「ねたみや闘争心からキリストを宣べ伝える」人々がいたようです(ピリピ1:12-17)。「キリストがわたしのうちに生きておられる」(ガラテヤ2:19-20)と告白したパウロは、全てを喜んで受け止めていました(ピリピ1:12-19)。パウロの身に起った出来事は、兵隊をイエス・キリストの救いへと導き、多くの人が確信を得、恐れることなくますます勇敢に神のことばを語るように変えてしまいました。見えない神が見え、わかるようになり、震撼させられても神の恵みの確かさに立たされるのです。
キリストの心で生きるのが教会です。キリストの心とは「へりくだった心」のことです。「へりくだった心をもって互いに人を自分よりすぐれた者としなさい」(ピリピ2:3)。イエスのへりくだりは、神のかたちであったお方が奴隷のかたちをとり、神であったお方が従順な人間となられました。その服従は死んでも従うという程のものでした(ピリピ2:6-8)。それは人が、罪人である人間が神の恵みの救いに与るためでした。
パウロは「うちに生きておられる」(ガラテヤ2:19-20)キリストによって、イエス・キリストの心で生きる人になりました。日毎イエス・キリストと同じように生きました。「わたしたちはどんな事にも、人につまずきを与えないようにし、かえって、あらゆる場合に、神の僕として、自分を人々にあらわしている・・・ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあわらしている」(2コリント6:1-8)。教会を通じてイエス・キリストの生き方が見えてきます。
教会が目ざすものは、「イエスにおいて上に召して下さる神の賞与」(ピリピ3:13-14)です。最終目標です。教会はゴールを目指して走っているのです。なぜなら、今まで知らなかった「絶大な価値」を知ったからです。今の時まで持っていた価値あるものとは比べものにならない価値です。それはイエス・キリストによって与えられた恵み、栄光の主と同じからだに変えられて永遠の命を生きるというものです。目標を目ざして走っている教会によって永遠が見えてきます。
教会はどんな境遇の中でも生きていけるのです。教会を強くしてくださる方がいるからです。「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」(ピリピ4:13)。神はご自身の栄光の富の中からいっさいの必要を与えてくださるのです(ピリピ4:19)。だから前進できるのです。やっていけるのです。教会はキリスト・イエスにあって祈りのうちに神と生きた交わりをしつつ歩みます。必要が与えられ、どんなことでもやれるのです。教会を通じて教会を生かしてくださっている神が見えてきます。