「荷を負う」コロサイ人への手紙1章24節-27節

 教会は「キリストのからだ」です。主イエス・キリストを信じるわたしたちひとりひとりは、キリストのからだの肢体です。そしてその教会のかしらはキリストです。

 教会のかしらであるイエス・キリストは、「神」であるとパウロは証言します(コロサイ1:15)。そして、「万物は天にあるものも地にあるものも・・・いっさいは御子によって造られ、御子のために造られたのである」(コロサイ1:16)と記しています。御子とはイエス・キリストのことです。イエス・キリストは神であって万物を創造されました。そのお方が人間になられたのです。人を罪から救うためです。神によって造られた人間が神に背いて罪を犯しました(創世記1章~3章参照)。それ以来、人は神から離れ、神のことがわからない世界に生きる者となってしまいました。その人間を救うために、人間の罪を背負って十字架の上で死んでくださったのがイエス・キリストです。この御子のあがないによって、人は罪のゆるしを得るのです(コロサイ1:13-14)。神と和解できるのです(コロサイ1:20)。ですから、教会のかしらであるキリストは創造とあがないの御業をなさったお方なのです。

 すべてのものを「造り」、「あがない」の御業をなさったお方が、キリストのからだである教会に内住してくださっているのです。これは「奥義」なのだとパウロは語っています(コロサイ1:26-27)。秘密にされていました。「わたしは、神の言を告げ・・・その言の奥義は、代々にわたってこの世から隠されていたが、今や神の聖徒たちに明らかにされたのである・・・この奥義がいかに栄光に富んだものであるか・・・この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである(コロサイ1:25-27)。現実にキリストのからだである教会のひとりひとりのうちに住んでくださっている、内住してくださっているのです。その内住のキリストは「栄光の望み」です。栄光、それは栄化です。キリストが再びおいでになられた時、キリストと同じ栄光のからだに、死に支配されない、永遠に生きることができるからだを与えられる「望み」です。教会のかしらであるキリストは教会の「栄光の望み」なのです。

 パウロは「キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている」と語り、それゆえに「今わたしはあなたがたのための苦難を喜んで受けて」いることを告白しています(コロサイ1:24)。パウロはローマの牢獄の中にいます。しかし、このことは福音がローマ帝国に入っていく機会になったとパウロは喜んでいるのです。イエスは弟子たちを派遣しました。「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ福音書16:15)。福音が全世界に伝えられ、すべての人が救われ、神を知るようになってほしいと教会のかしらであるキリストは願っておられるのです。キリストのからだのひとり、パウロはそのことを知り、苦難をも喜んで受け止め、福音の伝達に励んだのでした。人々が福音を聞いても信じない、救いの恵みがあるのに受け取らない、これが教会のかしらであるキリストの苦しみです。このキリストの苦しみが分かるパウロはその苦しみを受け止め、負うのです。だから福音を伝えたのです。でもパウロひとりで宣教に取り組んだのではありません。パウロは「わたしのうちに力強く働いていておられるかたの力により、苦闘しながら努力」したのです(コロサイ1:27)。教会のかしらであるキリストの思いを受け止めて、「苦難を喜んで受け」、福音の伝達に励むのがキリストのからだである教会なのです。