今朝は題を「ゆだねる」にしました。教会に、キリストのからだであるわたしたちにゆだねられているものに注目しましょう。
わたしたちのためにイエスは十字架で死んで甦りました。このことによって罪人であるわたしたちは、イエスを信じることによって罪を赦され救われます。この良きおとずれ、福音によって救われた者は永遠に生きることができる命、永遠の命を得ます。わたしたちは福音を聞いて、信じ受け入れ救いの体験をしました。確かに自分が決断して受け入れました。しかし、同時にそれは「委ねられたもの」なのです。パウロは告白します。「私に委ねられたもの」(テモテⅡ1:12)。
わたしたちの救いの体験は「あの時、あそこで」という時と場所があります。パウロは「ダマスコに近づいたとき」(使徒言行録9:3)でした。教会の人たちを縛りあげてエルサレムへひっぱって来るためにダマスコへ向っていたのです。パウロはこの時から、ダマスコから福音による新しい生活が始まりました。このことは、永遠の昔にイエスにあって賜っていた恵みで、主なる神が計画していたものなのです。そしてそれは、イエスの出現によって、神の計画通りにパウロの身に実際に起ったのです。
新しい歩みは福音によって福音のために生きる生活です。それはパウロに委ねられたものでした。それは教会のかしらであるキリストから、キリストのからだであるわたしたちひとりひとりに委ねられたものであると言うことができるでしょう。その生活にはさまざまな苦しみが生じてきます。パウロはテモテに語りかけます。「私たちの主を証しすることや、私が主の囚人であることを恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のために、苦しみを共にしてください」(テモテⅡ1:8)。そこには戦いがあります。パウロは告白しています。「私は、戦いを立派に闘い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました」(テモテⅡ4:7)。闘いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおすことができたのは、守ってくださるお方がおられたからです。パウロは明言します。「私に委ねられたものを、その方がかの日まで守ることができると確信している」(テモテⅡ1:12)。「守ってくださることができる」、この確信は「自分の信じてきた方を知っている」(テモテⅡ1:12)ところからくるものでしょう。
パウロは石を投げつけられたことがありました。難船して助かる望みもなくなってしまったこともありました。(使徒言行録14:19、27:18-20参照)どんなに助けられたことでしょう。守られたことでしょう。「信じてきたかた」は「ゆだねられているものを守ってくださる」のです。どんなことがあっても主イエスの助けと守りを得て、パウロは多くの人々に福音を宣べ伝えることができました。(テモテⅡ4:16,17参照)しかしパウロにも最後が訪れます。それだから、信頼できる人に福音を委ねていくことが大切でしょう。パウロは手紙に書き記しました。「マルコを連れて、一緒に来てください。彼は、私の務めのために役に立つからです」(テモテⅡ4:11)。パウロは彼らとどのような交わりをしたのでしょう。この後、マルコは「マルコによる福音書」を書き、ルカは「ルカによる福音書」を書きました。
これが走るべき行程を走りつくすということでしょう。このようなパウロを待っているのは「義の冠」です。わたしたちも「委ねられたものを、守ってくださることができる」お方を信頼して、走るべき行程を走りつくしましょう。