「健康なからだ」テトスへの手紙1章1節-5節

 誰もが健康でいたいと思っています。健康を維持するために健康診断を受けます。元気でいたいからです。

 今朝の「健康なからだ」は、わたしたちの身体のことではなく、教会のことです。キリストのからだとしての教会のことです。教会も健康でなければいけません。教会が健康であるということはキリストのからだであるひとりひとりが健康であるということです。健康を害するようなことになってはいけません。病んでしまってはいけません。だからパウロはテトスに手紙を書き送ったのでしょう。テトスはクレタ島にいました。クレタの人はうそつきで、たちの悪いけものと言われ、なまけ者で食いしんぼうでした。(テトス1:12参照)パウロは危険を感じていたのでしょう。信仰を同じうするテトスに、健康な教会形成をしてもらうためにテトスのすべきことを書いて、彼に託したのでしょう。

 イエス・キリストの福音によって救われた人々の集まりが、教会として生けるイエス・キリストを証していくためにどうしたらよいかがこの手紙には書かれています。ここには長老、監督がいます。お年寄りの男女がいます。若い男女もいて、それから奴隷がいます。グループに分けられています。そしてそれぞれのグループの中でやるべきことをやるように指導しています。(テトス1:5-20参照)どのグループにも共通して強調されていることは、「慎み深くある」ということです。神に愛されているひとりひとりが、神を愛し、神が愛しておられる隣人を愛するという愛から生まれてくる「慎み」です。神の愛によって慎む生活、歩みこそ健康な教会(からだ)なのです。

 この健康な歩みの土台はイエス・キリストの十字架による救いです。「キリストが私たちのためにご自身を献げられたのは、私たちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民をご自分のものとして清めるためだったのです」(テトス2:14)。良いわざに熱心なのはイエス・キリストの贖いによるのです。わたしたちを不法から贖い出すために、イエスは「ご自身をささげられた」のです。これがイエスの十字架なのです。感謝せずにはいられません。そのようにして救われたわたしたちは「特別に選抜された者」なのです。その救われた時、聖霊によって「維新」、全く新しく造り変えてくださったのです。(テトス3:5と2:14の文語訳参照)ここから新しい歩み、健康な歩み、神を愛し他者を愛する歩み、慎み深い歩みが始まったのです。

 ひとりひとりが健康でいなければ健康なからだとしての教会は形成されていきません。それだけに神に愛されているわたしたちは、祈りと聖書のみことばを通して神と生ける深い交わりをし、それぞれの十字架による救いの恵みを新たに受け止めて、常にその恵みに立って歩みましょう。そこから慎み深い愛の生活が生まれてきます。神に赦していただいた者だからと、相手のことを思って言うベきこと、すべきことを差し控える、配慮をする歩みが生まれます。愛の生活をし、多くの人を健康に導いていく健康なからだとしての教会の歩みをしていきましょう。