本書は短い手紙です。個人的なお願いの手紙です。この手紙を読むと、福音によって生きている人の姿が見えてきます。
この手紙はパウロが書いています。「私パウロが自分の手でこう記します」(19)。パウロは捕われの身で産んだ自分の子供のためにこの手紙を書きました。「獄中の中で生んだ私の子オネシモのことで、あなたに頼みがあるのです」(10)。
パウロはこの時ローマの牢獄に捕えられていました。「イエスの囚人」(1)とあります。パウロはイエスの福音によって救われ、イエスに捕えられ、喜んで福音を伝えました。福音を語り伝えていたがために捕えられ、ローマの牢獄に入れられ囚人となってしまったのです。(1,9)詳細はわかりませんが、この時期に、パウロが「愛する同労者」(1)と言える富豪の商人フィレモンの奴隷であるオネシモがパウロと出合い、パウロから福音を聞き、信じて救われたのです。獄中で産んだとはこのことです。福音は良きおとずれです。わたしたちの罪のために十字架で死んでくださったイエスによってどのような人でも救われるのです。悔い改めて信じる者を救うのです。新しく造り変えられるのです。パウロも救われ、オネシモも救われました。これが福音です。
オネシモは主人フィレモンのお金を盗んで逃亡した人、主人フィレモンの家から逃げたフィレモンの奴隷です。オネシモはローマの都に逃げ込みました。姿を隠すには最適だと考えたのでしょう。しかし、そういうことの中にも主なる神は働いてくださっているのです(15参照)オネシモが安全だと計算したローマで、主人フィレモンと親しいパウロと出会うことになりました。「獄中で産んだ私の子オネシモ」(10)。
パウロにとってオネシモは「わたしの子供」になりました。「産んだ」(10口語訳)とありますから。オネシモが救われるためには「産みの苦しみ」があったことでしょう。福音を伝えることは、決して簡単なことではないのです。パウロはオネシモに福音を語りました。そしてオネシモのために祈ったことでしょう。祈っては語り、語っては祈るということを続けることによって「産まれた」のです。オネシモは悔い改めて信じ、救われたのです。だからパウロの「子」なのです。オネシモは変わりました。奴隷ではありますが「パウロの子」、損失を与える人から利益をもたらす人に変わりました。(11)12節ではパウロの「心そのもの」、パウロと一つになっています。16節では「愛する兄弟」です。救われて新しく造り変えられると人との関係も新しく変わるのです。
しかし、それであっても奴隷は奴隷です。パウロは手許に置いておきたかったがフィレモンのものだから、彼のもとに送り返そうとします。(12)「オネシモを・・・迎え入れてください」(17)と「お願いします」(19)。パウロはフィレモンに「率直に命じ」(8)ることができる立場になりました。しかし「なすべきことを指示せず、「愛のゆえにお願いする」のです。(9,10)「わたしと同様に彼を受け入れてほしい」(17口語訳)。さらにこうも書いています。「何か負債があれば・・・わたしが返済する」(18口語訳)。それだけでなく、「あなたが自分を、私に負うていることは、言わないでおきましょう」(19)と記しています。言えるけど言わないのです。
これが福音によって生きることなのです。こういうものをわたしたちは与えられているのです。福音によって生かされている者として福音から出てくる力によって問題を解決し乗り越えていく歩みをしましょう。