「血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない」(ヘブル9:22口語訳)これが聖書のメッセージです。旧約聖書と新約聖書を貫いている中心的な主張です。わたしたち人間の罪は、血を流すことによってゆるされるのです。それ以外にゆるされる道はないのです。
神によって造られた人間は、造ってくださった神と交わっていました。しかし神との約束を破って神に背いてしまったことによって罪が入り込んできて、神と人との間を隔ててしまいました。罪人は神と交わることができません。そこで神の方から罪人と交わる道を開いてくださったのです。それが祭儀です。
旧約の時代、イスラエルの民は幕屋を作りました。幕屋の中で祭儀を営みました。神に近づけない人間が神に近づき交わることのために、からだに欠陥のない牛や羊を殺したのです。祭儀は全て神の指示です。神は殺された牛や羊の血を見て罪をゆるし、罪人と交わってくださったのです。血は命だからです。血が流され命が注ぎだされることによって罪人の身代わりになることができたからです。旧約の時代は幕屋の中で、この血が流され、イスラエルの人々は罪のゆるしを得て神と交わることができたのです。彼らの中に神が、聖なる神が住んでくださったのです。(出エジプト25:8参照)
旧約の祭儀は、後に神がなさろうとすることを表わすものでした。罪人である人間の身代りとなってくださるお方を指し示したものでした。時満ちて、そのお方がおいでになりました。ベツレヘムでお生まれになったイエスがそのお方です。「子たちは皆血と肉とを持っているので、イエスもまた同じように、これらのものをお持ちになりました」(ヘブライ2:14)。罪を犯した人間の身代りになるためです。そのために「生まれ」て人となり、33年を過ごされました。そしてイエスは十字架の上で「ご自身を傷のないものとして神に献げられた」(ヘブライ9:14)のです。だから十字架の上で流されたイエスの血には力があるのです。「それはご自分の死によって、死の力を持つ者、つまり悪魔を無力にし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた人々を解放されるためでした」(ヘブライ2:15)。そして「生ける神に仕える者と」(ヘブライ9:14)するのです。
罪を犯さなかったイエスが罪を犯した人間の身代りに、罪人のために十字架の上で全きいけにえとしてご自身を神にささげられたのです。神はそれをお受けになられました。それを証明しているのが甦りです。「あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスはよみがえってここにはおられない。ごらんなさい、ここがお納めした場所である」(マルコ福音書16:6口語訳)。
イエスが罪人の身代りになってくださったことによって、誰でも罪をゆるしていただき、神と交わる道が開かれました。「兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった生きた道をとおって、はいって行くことができる・・・のだから、心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか」(ヘブル10:19-22口語訳)。わたしたちは自由に神に近づけるのです。交われるのです。「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます」(ヤコブ4:8)。