信仰によって救われたキリストのからだである教会のひとりひとりの実際の日常生活を取り上げてみましょう。救われた人たちの実生活です。
キリストのからだであるわたしたちは信仰によって救われました。行いによってではありませんでした。信じて救われました。その信仰は実際の日常生活で行いとなって表されます。そのことをイエスの弟であったヤコブが手紙の中で語っています。イエスが語られたように歩むのが信仰であると教会の人たちに書き送っています。
「あなたがたの中で知恵に欠けている人があれば、神に求めなさい。そうすれば、与えられます・・・少しも疑うことなく、信じて求めなさい」(1:5-6)。知恵を手に入れたければ神に願い求めることを勧めます。求める時は疑わないで、信じて願い求めることが大切です。必ず与えられるからです。信じて求めるように勧めることができたのは、その背後にイエスが語られた「イエスのことば」があったからです。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる」(マタイ福音書7:7-11,ルカ福音書11:9-10参照)。
ヤコブはみことばを聞くだけの人になってはいけない、行う人になるように勧めます。「あらゆる汚れや甚だしい悪を捨て去り、植え付けられた御言葉を謙虚に受け入れなさい。御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。御言葉を行う人になりなさい」(1:21-22)。みことばに聞いて従うことが大事なのです。みことばに聞いて従うことの大切さをイエスは話されました。「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川が溢れ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである」(マタイ福音書7:24-25)。みことばに聞いて従うその人は倒れないのです。みことばに生きる人は守られ支えられるのです。
「イエス・キリストへの信仰があるなら、分け隔てをしてはなりません」(2:1)、「差別をし」ないようにとヤコブは語っています。それはわたしたちは貧しい者であったのに、神はその貧しいわたしたちを「選んで信仰に富ませ、ご自分を愛する者に約束された御国を、受け継ぐ者となさった」(2:5)からなのです。御国を受け継ぐ人は「貧しい人」であって富んだ人ではありません。イエスは目をあげ、弟子たちを見ておっしゃいました。「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである」(ルカ福音書6:20、マタイ福音書5:3口語訳参照)。謙虚な心をもって人に向かうことが大切です。
信仰によって歩む人は「平和をもたらす人」(3:18)です。与えられている「上からの知恵」は複雑や混乱を無くします。「平和を造り出」(3:18口語訳)します。このこともイエスのことばが土台になっています。「平和を造る人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ福音書5:9)。柔和な行いをしましょう。
ヤコブは誓いをせず「然りは然り、否は否」(5:12)とすべきであると勧めます。なぜならイエスが誓ってはならないとおっしゃったからです。(マタイ福音書5:33-37参照)誓っても人にはそれを為し遂げる力がありません。正直に、誠実に歩みましょう。
キリストのからだである教会のわたしたちもみことばに聞いて行う人になりましょう。