今朝のメッセージの題は「悟る」です。5章13節に「知ってほしい」と書かれています。口語訳では「悟ってほしい」となっています。口語訳のことばを題にしました。知る、悟る、それは分かるということでしょう。自分で感じとれるということでしょう。何を感じとるのか。それは自分が「永遠のいのち」を持っているということです。永遠のいのちを持っていると自覚して生活するのがキリストのからだであるわたしたちひとりひとりの生活なのです。これがキリスト教なのです。
主なる神は「私たちを愛し、私たちの罪のために宥めの献げ物として御子をお遣わしになりました」(ヨハネ一4:10)。神は子なる神をこの世に遣わされました。子なる神は「生まれる」ことによってこの世においでになりました。それはわたしたちの罪のために十字架で死ぬためです。ヨハネは福音書にそのことを書き記しました。そして最後に福音書を書いた目的を述べました。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、信じて、イエスの名によって命を得るためである」(福音書20:31)。イエスは救ってくださるお方であると信じて、永遠のいのちをわたしたちがいただくためであったのです。♪十字架に罪は滅び 十字架に罰は消えた この事を成就した イエスの声だ 「あなたがたによくよく 言っておくが 誰でも 信じる者には永遠の命がある」♪と歌われているではありませんか。(新聖歌243参照)
いただいた永遠のいのちを持っていると分かるように、自覚できるように、ヨハネは救われた教会の人たちにこの手紙を書き送りました。「永遠のいのちを持っている」と分かるのは、「行いと真実をもって愛する」(ヨハネ一3:18)生活ができることによってです。他者を愛する生活です。「愛する生活」のでどころは神の愛です。そこから生まれてくるのです。「私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです」(ヨハネ一4:19)。神が私たちを愛してくださったからイエスをお遣わしになったのです。「ここに愛があります」(ヨハネ一4:10)。ことばや口先だけではないのです。行いと真実をもって愛してくださったのです。ヨハネはイエスの十字架によって愛を知りました。「御子は私たちのために命を捨ててくださいました。それによって、私たちは愛を知りました」(ヨハネ一3:16)。この告白は、十字架の一部始終を側で見聞きしたことからでてきたのでしょう。これが愛だ、愛するということだと、ヨハネは愛を知ることができたのです。
神の愛が届き、受け止められた時、受け止められた神の愛は、その人を「愛する人」にします。「私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちの内に全うされているのです」(ヨハネ一4:12)。神に愛された愛をもって互いに愛し合っていく「愛する生活」を生み出すのです。イエスと同じように行いと真実をもって愛する人になるのです。
その愛する生活が、愛してくださる神によって新しく造り変えられ、新しいいのち、永遠のいのちが与えられて、そのいのちによって生きていることを自覚させるのです。「愛には懼なし、全き愛は懼を除く」(ヨハネ一4:18文語訳)。恐れなく主なる神の前に立ち、神と交わり、恐れを乗り越えていける歩みができるのです。