「忍び込むもの」ユダの手紙1節~4節

 信じて救われた教会の愛する人たちが、信仰を失うことなく、しっかりと「信仰のために闘う」ことを勧めるためにこの手紙は書き送られたようです。

「愛する人たち、私たちが・・・あなたがたに手紙を書いて、聖なる者たちにひとたび伝えられた信仰のために闘うことを、勧めなければならないと思ったのです」3)。

 この手紙は「ヤコブの兄弟であるユダ」1が書きました。ですからユダはイエス・キリストの弟になります。紀元80年から90年頃に書かれたようです。その頃、「伝えられた信仰」とは異なる教えが教会の中に入り込んできて、信仰を失わせてしまうような危機が生じたのです。信仰というのはイエス・キリストのことです。イエス・キリストはこの世に生まれ、十字架にかかり死を打ち破って復活し、信じる者に永遠のいのちが与えられる救いの道を開いてくださいました。信じる者は誰でも救われました。カルバリ山のイエスの十字架は一度限りのできごとですが、信じる者を今も救っています。これが「聖徒たちによって伝えられた信仰」です。

 この信仰は「伝えられたも」です。受けた人がそれによって生かされ、そして他者に伝えるのです。伝えることによって伝達され、伝えられた人が信じて救われるのです。決して人が造り出したものではないのです。信仰は「ひとたび」伝えられたもの、「聖徒にひとたび」伝えられたものだと書かれています。その始まりはイエスです。イエスから弟子たちへ、そして弟子たちから人々へと伝えられたものです。その信仰の中心となっている大切な所は決して変わらないのです。それはイエスが罪人を救うために人となってこの世に来られ、十字架で死に、そして甦られたということです。

 この教会の信仰をぐらつかせ、「伝えられた信仰」を失わせようとする人々が教会に入り込んで来たのです。「神の恵みを放縦な生活に変え」(4)てしまう人々が、「主イエス・キリストを否定」(4)する人たちが「忍び込んで」(4)きたのです。「忍び込んで」と言う言い方をしていますが、そういう人たちは正門を通って玄関から入って来ることはしません。分からないように、裏口から忍び込んでくるのです。人目を避け、隠れるようにして入り込んで来るのです。

 このような手口はエデンの園での蛇とエバの遣り取りを思い起こさせます。神との約束を守って生活していたエバでした。蛇はエバに話し掛けます。「神は本当に、園のどの木からも取って食べてはいけないと言ったのか」。エバは答えます。「食べることはできます。ただ、園の中央にある木の実は、取って食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないからと、神は言われたのです」。すると蛇は「いや、決して死ぬことはない。それを食べると目が開け、神のように善悪を知る者となることを神は知っているのだ」と答えるのです。そのような遣り取りを通して、エバに変化が生じます。「見ると、その木は食べるに良く、目に美しく、賢くなるというその木は好ましく思われた」ので、エバは「取って食べた」のです。蛇に為て遣られました。それだから、ユダは忍び込んで来るサタンに気をつけ、騙されることなく信仰のために「闘う」ことを勧めるのです。

 主なる神は私たちを救いへ導き入れてくださっただけでなく、信仰のために闘う者を「守ってつまづかない者とし、傷のない者として、喜びの内に栄光の御前に立たせることができる」(24)お方なのです。このお方を仰ぎ、信頼して「信仰のために」闘い続けて行きましょう。

 「世に勝ちませる 主共にまさば われらは常に勝利」(新聖歌459)