今日の題は「見せられたもの」です。ヨハネが神に「見せられたもの」です。ヨハネに語らせようと、神が見せたのです。「すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためにキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである」(1:1)。ヨハネは「見たすべてを証しした」(1:2)のがこの黙示録なのです。「あなたが見たこと、今あること、また後に起こることを書き記せ」(1:19)と言われた通りにヨハネは書き記したのです。そして、ヨハネが書いたこの書は、礼拝において朗読をされたようです。「この預言の言葉を朗読する・・・」(1:3)。
ヨハネが見せられたものは「人の子のような方」(1:13)でした。「人の子」は地上においでになられたイエスが、ご自分のことをそのように呼ばれていました。(マタイ福音書8:20等、参照)「人の子」のようなお方は、天におられるイエス・キリストでした。「私たちを愛し、その血によって罪から解放してくださった方」(1:5)であり「私たちを御国の民とし、またご自分の父である神に仕える祭司としてくださった方」(1:6)で、「今おられ、かつておられ、やがて来られる方・・・真実な証人にして死者の中から最初に生まれた方、地上の王たちの支配者、イエス・キリスト」(1:5)でした。旧約の預言者イザヤが見、証言した(イザヤ41:1等)お方でした。(1:8)それはカルバリ山の十字架で殺され、復活し、信じる者に永遠のいのちを与える救いへの道を開いて天にお帰りになられたイエスでした。
このお方は教会を巡り歩いておいでになられるのです。そのお方は「7つの星」を右手に持ち、「7つの金の燭台の間を歩く方」(2:1)でした。燭台は教会のことで、星はその指導者を表すといわれます。黙示録が書かれた一世紀末頃の教会はローマ帝国の迫害を受けて教会の多くの人たちが殉教し、ヨハネはパトモス島に島流しにされました。その当時の教会に対して主イエスは語りかけられるのです。「私は、あなたの行いと労苦と忍耐を知っている」(2:2)。知っている、知っていると教会に語りかけておられます。「知っている」は共感し受け止めてくださっていることを表している表現のようです。何も彼も知っていてくださるお方は、「今のあなたはこのようになってしまっています。悔い改めて、立ち上がりなさい」と励ますのです。7つの教会の一つ一つに語りかけておられるのです。それぞれ状況は違います。同じではないのです。その教会をよく見ておられるお方が、よく知っていてくださるお方が、迫害の中にある、信仰の闘いの中にある教会に丁寧に語りかけて勝利を得るように励ましてくださっておられるのです。そういう教会の主イエス・キリストを見せられたのです。
ヨハネは「主の日」にそのお方を見たのです。(1:10)「人の子のような」お方を見たとき、ヨハネは「死人のようにその足下に倒れた」(1:17)のです。「腰を抜かす」以上のことが起こったのでしょう。ヨハネは流された島で、ひとりで礼拝を厳守していたのでしょう。ヨハネは礼拝の中で見せられたのです。礼拝の中に主イエスが現れ見せてくださったのです。キリストのからだであるわたしたちも、礼拝の中に現れ、そのお方が見せてくださるものを見、語りかける声を聞きましょう。そういう生きた礼拝をする教会であり続け、初めの愛、最初の、そして最高の愛をもって愛し仕え、健全な信仰生活をして勝利者になりましょう。