「招待」ルカによる福音書14章15節~24節

 ヨハネは神に見せられたものを「黙示録」に書き記しました。「黙示」とは蔽いを除いて見せられたもののことです。それを「録」、すなわち書き記したものです。ヨハネが見せられたものの一つに「新しい天と新しい地」(黙示録21:1)があります。この新しさは、単にものを新しくすることではなく、新しくされたら決して古くならないのです。これが「万物を新しくする」(黙示録21:5)ということです。神の救いの完成、神の国の完成です。

 イエスのお話で神の国に関することが、わたしたちの生活の「宴会・祝宴」ということばで表現されているのは興味深いです。宴会や祝宴は華やかで楽しいものではないでしょうか。神の国は少なくともそういうところなのでしょう。「大宴会」のイエスのたとえ話(ルカ福音書14:15―24)は「宴会」に招待されていた人々が欠席したため、誰でも出席できるようになったという話です。これは神がわたしたちを、イエス・キリストによって永遠の救いへと招いてくださっているということでしょう。神は特別な人でなく誰でも、取るに足りないわたしたちひとりひとりに祝福を、永遠の救いを与えようとしておられるということです。救いへと招いてくださっているのです。「急いで、町の大通りや路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい」「街道や農地へ出て行って、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」(ルカの福音書11:21、23)

 主なる神は人々に永遠の救い、永遠の祝福を与えたいのです。「出て行き・・・連れて来なさい」、「無理にでも人々を連れて来て、この家いっぱいにしてくれ」という表現に、どうしても救いたい、祝福したいという主なる神の思いが表されているといえないでしょうか。それほどまでに神はわたしたちを愛しておられるのです。「ひとり子」を賜うほどに愛しておられるのです。ヨハネが証言しています。「神は、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ福音書3:16)。イエスはこの世に来てくださいました。「馬槽の中に産声上げ」たイエスは「大工の家」の人となって、「貧しき憂い、生くる悩み」を「つぶさになめ」てくださったのです。そして、このイエスによって神の愛は現されました。(新聖歌99参照)

 招待は応じる、その招きに答えることが求められています。「畑を買った人、牛を買った人、妻を迎えた人」(ルカ福音書14:18―20)は、自分のことを優先させて招待を断ったのです。盛大な宴会の席につくことができませんでした。招きに応じた人たちの歌があります。貧しいひとり住まいの女性の家は平和に満ちていました。喜びそして賛美せずにはおれない生活をしていました。「どうしてそのような生活を送れるのですか」という問に、彼女は答えています。「イエスはわたしの全てだから」と。(新聖歌249参照)イエスはおっしゃいました、「神の国はあなたがたのただ中にある」(ルカ福音書17:21)と。イエスが神の国そのものであり、イエスを信じる人の内に神の国ははじめられています。そしてイエスの再臨によって神の国が完成されるのです。

 その日を待ち望む者とされたわたしたち、キリストのからだである教会のわたしたちは、その日を待望するだけでなく、招かれて神の国に入れていただいたのですから、神が招いておられることを伝え続けて行きましょう。「急いで・・・出て行き・・・ここに連れて来なさい」、「出て行って、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」(ルカ福音書14:21、23)