病と闘っている方のために、今、教会は一つになって祈り闘っています。自分のこととして受け止めて闘っています。一つになって祈れることは感謝です。イエス・キリストを知る以前のわたしたちの生活には無かったことです。
一人の弟子がイエスに「わたしたちにも祈りを教えてください」とお願いしています。
(ルカによる福音書11:1-13)弟子のこのようなお願いはどうしてできたのでしょう。
「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると」(11:1)と記されています。
イエスの祈りを見聞きしていた弟子はイエスが主なる神と生きた交わりをしていると感じ取ったのではないでしょうか。当時はそのような祈りをしている人はいなかったのでしょう。
形式的な祈りをする人たちはいたでしょう。でも、そういう人たちの唱える祈りとは異質のものを感じ取ったのではないでしょうか。そして、自分も祈りたい、祈れる者になりたいという欲求が出てきたのではないかと思うのです。キリストのからだである教会のわたしたちも祈りの生活を通して、イエスのように周囲に良いものを分け与えていきましょう。
弟子たちにイエスが教えた祈りはどのようなものだったのでしょう。イエスが教えたのは、先ず、主なる神への呼びかけでした。「父よ」(11:2)です。神は「お父さん」なのです。キリストのからだである教会のひとりひとりは、イエスの贖いによって「子たる身分を授け」られた者たちなのです。(ガラテヤ4:4-7参照)主なる神の子供だから祈ることができるのです。
父と子の関係からでてくる祈りは「御名が聖とされますように」(11:2)なのです。
神を神として生活するということでしょう。神第一の生活です。そして「御国が来ますように」(11:2)という待望です。旧約聖書の人々も待ち望んでいました。(ヘブライ人への手紙11:13-16参照)ヨハネはパトモスの島で新天新地を見せられました。(黙示録21:1参照)ペトロは手紙に書き記しています。「私たちは、神の約束に従って、義の宿る新しい天と新しい地とを待ち望んでいます」(ペトロの手紙二、3:13)。教会は新天新地を忘れることなく、「御国が来ますように」と祈っていかなければなりません。
御国を待望しつつ、その時が来るまでは、この地上で生活をしますので、祈りは生活全般に及んでいます。「私たちに日ごとの糧を毎日お与えください」(11:3)現在の必要です。
モーセによってエジプトから救い出された神の民は、荒野で神から日ごとの糧を与えられ、旅を続けました。(出エジプト16章参照)カラスを養ってくださる天の父ですから、キリストのからだである教会を養ってくださらないはずはありません。(ルカによる福音書12:22-31参照)そして、「私たちの罪をお赦しください」(11:4)。黙示録に記されている7つの教会を思い起こします。「悔い改めよ」「悔い改めよ」と語りかけられています。(2章~3章参照)罪に気付くことは恵みです。父なる神がそこから救い出してくださるからです。(ヨハネの手紙一、1:7参照)最後に「私たちを試みに遭わせないでください」(11:4)。イエスご自身が試みにあわれました。(ルカによる福音書4:1-13参照)しかし、イエスは勝利しました。勝利者がわたしたちと一緒にいてくださいます。「誘惑に陥らぬよう、起きて祈って」(ルカによる福音書22:46参照)いきましょう。
イエスによって神の「子供」とされているわたしたちは、イエスのように主なる神に向かって「お父さん」と呼びかけて祈り、日毎に祈りを深めていきましょう。