「要求」ペトロの手紙一 1章12節~16節

 題を「要求」にしました。主なる神がわたしたちに求めておられるものは何なのかを、ペトロの手紙一、1章16節を中心にお話することにします。「聖なる者となりなさい。私が聖なる者だからである」(1:16)

 主なる神は聖なるお方です。聖なる神の自己顕示によって「聖」体験をしたのがモーセでした。荒野で羊の群れを飼っていたモーセは「大いなる光景」(出エジプト3:3)を目撃しました。柴は燃えているのに燃え尽きませんでした。不思議に思ったモーセは柴に近付こうとします。その時、主なる神はモーセにおっしゃるのです。「近づいてはならない。履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地である」(3:5)。聖なる神がそこにおいでになるので、そこは聖なる地なのです。わたしたちは聖なる神に近づくことができないのです。それが聖なる神なのです。神の「聖」なのです。

 イザヤは神殿で神の聖を知りました。ウジャ王が死んだ年のことでした。「高く上げられた王座に主が座っておられるのを見た」(イザヤ6:1)のです。イザヤは生ける神がそこにおいでになることを実感したのです。そして天使たちがそのお方を賛美していました。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな万軍の主。その栄光は全地に満ちる」(6:3)。その時イザヤは告白せずにはおれなかったようです。「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ」(6:5口語訳)。神の前に立つイザヤは自分がどんなに汚れた罪深い者であるかを知り、滅びることを口にしました。これが聖なる神なのです。神の「聖」なのです。

 聖なる神だからこそ、わたしたちに「聖なる者となりなさい」とおっしゃるのです。「なれ」とおっしゃるお方は「ならせてくださる」お方でもあるのです。「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なる者にしてくださいますように・・・あなたがたをお招きになったお方は、真実な方で、必ずそのとおりにしてくださいます」(テサロニケ一、5:23-24)。だからイエスがこの世に遣わされました。そしてイエスの十字架と復活によって「私たちを新たに生まれさせ」(ペトロ一、1:3)てくださったのです。今までとは全く違った、異なった者にしてくださったのです。そして神に「従順な子として」(ペトロ一、1:14)、「召し出してくださった聖なる方に倣って」(ペトロ一、1:15)生活する者にしてくださったのです。それだけでなく、「霊と心と体とを守り、私たちの主イエス・キリストが来られるとき、非の打ちどころのない者にしてくださいます」(テサロニケ一、5:23)。

 わたしたちは、わたしたちを召し出してくださった聖なる神の助を得て、心を引き締め、身を慎しみ、やがて与えられる栄光の恵みを待望しつつ生活のあらゆる面で聖なる者になりましょう。