「力ある言葉」ルカによる福音書 4章31節~37節

イエスの言葉には権威がありました。力がありました。実例を拾い挙げてみましょう。

 イエスは「汚れた悪霊に取り憑かれた男」から悪霊を追い出しました。「黙れ。この人から出て行け」と、イエスがお叱りになると悪霊は出て行ったのです。(4:34、35)

ひどい熱で苦しんでいたシモンのしゅうとめの枕元に立たれたイエスは「熱を叱りつけ」ました。すると「熱は引き、彼女はすぐに起き上がって一同に仕えた」のです。(4:38、39)夜通し働いても何も捕れなかった漁師たちに船を出させたイエスは、網を降ろすように言われました。漁師シモンはイエスに答えました。「先生、私達は夜通し働きましたが、何も捕れませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」網を降ろしてみると「おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった」のです。(5:1-7)イエスは床に載せて運ばれてきた病人を癒されたこともありました。イエスが「起きて床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われると、「その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた床を担いで、神を崇めながら家に帰って行った」のです。(5:17-26)

 これらの奇跡で、共通して言えることは、イエスの「言葉」によって行われていること、そして言葉通りに即座に「起こっている」ことです。これらの奇跡はイザヤが預言していた「やがて来る救い主」がイエスであるということをはっきり示したものなのです。イエスは会堂で聖書を朗読されました。イザヤ書です。「主が私を遣わされたのは 捕らわれている人に解放を 目の見えない人に視力の回復を告げ 打ちひしがれている人を自由にし 主の恵みの年を告げるためである」(4:18、19、イザヤ61:1-3参照)。イエスはイザヤ書のこの箇所を読み上げられて、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められました。「イザヤが語っていた救い主はわたしである」と、イエスはご自分を人々に示されたのです。奇跡の業は奇跡を行うことが目的なのではなく、そのことによってイエスが救い主であることを明示することなのです。

 イエスは業を行いつつ十字架への道を歩みました。そして人々の罪を背負い、罪ある者の身代わりとなって十字架で死んでくださいました。「父よ、彼らをお赦しください」(ルカ福音書23:34)。十字架上でのイエスの祈りです。イエスが十字架で死んでくださったからわたしたちは赦されるのです。赦され、新たに生まれ、永遠の命を得るのです。(ヨハネ福音書3:1-17参照)キリストのからだであるわたしたちは赦しの恵み、新生の恵みの体験者です。神の救いの恵みの証人です。この恵みを新たに受け止めて主なる神に感謝しましょう。