この手紙の前文で、送り主がどういう人なのかを記しています。送り主はパウロという人です。パウロは「僕」であり、「使徒」であり、「選ばれた人」です。(1:1)これはパウロの自己紹介と言えるでしょう。
パウロは自分のことを僕だと言っています。彼の自己認識です。僕とは奴隷のことです。何事も主人の言う通りにするのが奴隷です。パウロの主人はイエス・キリストです。「キリスト・イエスの僕」(1:1)。イエスはおっしゃいました。「人の子がきたのは仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」(マタイ福音書20:28口語訳)。イエスは神を離れて罪の奴隷となっていた人々を救うために人となり、人々の罪を背負って十字架で死んでくださいました。これはイエスがパウロを愛していたからです。パウロはそのように受け取っています。「私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の子」(ガラテヤ2:20)。このイエスの愛を知った時、パウロはイエスを愛し、イエスの奴隷となって歩んだのです。奴隷としての生活、歩みもイエス・キリストの真実によって支えられ、生かされていたからできたのです。パウロは告白しています。「私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の子の真実によるのです」(ガラテヤ2:20)。このようにしてパウロは神にも人にも、どこまでも身を低くすることができたのです。仕えることができたのです。
次に使徒だと言いました。使徒とは、神から伝言を頼まれて派遣された人のことです。この使徒ということばはイエスの12人の弟子にだけ使用されたものです。パウロは使徒だと自覚していました。ですが、これはパウロが勝手に決めたことではありません。「召されて使徒になったパウロ」(1:1口語訳)と記されています。神が召されたのです。召されたから使徒になれたのです。この召しには神の深いお考えがあったに違いありません。12人の弟子をお選びになられたイエスは、「山に行き、夜を徹して神に祈られた」(ルカ福音書6:12)のです。そして「朝になると弟子たちを呼び寄せ、その中から12人を選んで使徒と名付けられた」(6:13)のです。12人を選ばれたイエスがそのようになさったのですから、神の深いお考え、ご計画によって召されて使徒とされたのがパウロなのです。
もう一つは選ばれた者です。パウロは「福音のために」選ばれた人なのです。福音を伝えるために選ばれたのがパウロでした。福音は「よろこびのおとずれ」です。人は罪の中に生まれ、罪を犯し、滅びるしかありませんでした。神から遣わされたイエスは、人間の罪を背負って十字架で死んでくださいました。そのイエスを神は甦らせ、イエスを信じる人に永遠の命を与えて永遠の救いに入れてくださるのです。これほどの「よろこびのおとずれ」は他に見つからないでしょう。実際、パウロたちを選んで伝道に遣わしたのはアンティオキア教会でした。教会の人たちは礼拝の中でパウロとバルナバを会衆の中から選んで、断食と祈りとをして遣わしたのです。(使徒13:1-3参照)その派遣の背後には神の選びがあったのです。神の選びはパウロが「母の胎にいるとき」(ガラテヤ1:15)からだったのです。否、「天地創造の前」(エフェソ1:4)からでした。驚くばかりです、選びの深さに。
神は福音を伝えさせるためにパウロを多くの人の中から選んで使徒として遣わされました。僕であるパウロは働きました。そして多くの実を結びました。このことは、キリストのからだであるわたしたちひとりひとりのことでもあるのです。