キリストのからだである教会のわたしたちは「果たすべき責任」があります。パウロはこの手紙の中で、「私には、ギリシャ人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります」(1:14)と書いています。果たすべき責任とは返さなければならない負債があるということです。
パウロはローマの教会の人たちに「霊の賜物を幾らかでも分け与えて、力づけたい」(1:11)と書き送っています。霊の賜物とは、救われた人たちが神から与えられたものです。パウロが持っているものです。ペトロも「美しの門」で口にしました。「私には銀や金はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(使徒言行録3:6)。生まれつき足の不自由な男の人が、足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだしたのです。奇跡です。癒す賜物を与えられていたのです。
神は救われた教会の人たちに賜物をお与えになっているのです。それは、それぞれが「わたしにあるもの」と自覚できるもので、神から頂いて「持っている」と言えるものです。神がひとりひとりに与えてくださっている賜物は、それをお互いの間で生かし合って、自分も力づけられ、他の人をも力づけていくものなのです。だからパウロは「お互に持っている信仰によって、共に励まし合いたいのです」(1:12)と語っているのです。パウロは互いに交わることによって賜物を発揮し、それがそれぞれを励ますことになると言うのです。「霊の賜物をあなたがたに幾らかでも分け与えて、力づけたい」(1:11)と語るパウロは、交わることによって「わたしが恵まれたい、励まされたいのです」と言っているのです。これが教会の交わりなのです。
そういうパウロが、ローマで「実りを得たいと望んで」(1:13)いました。救われる人々が起こされるようにということです。同時に、教会の人たちの中に新しい業が、働きが生まれることを望んでいたのです。農夫は泥だらけなって働いて実りの時期を、収穫の時期を待ちます。パウロも農夫のように働いて実を結ばせたいと願っていたのです。多くの人に福音を伝え、ひとりでも多く救われることを望んでいたのです。
パウロが自分に与えられているものを発揮して福音を伝達するのは「果たすべき責任」があるからです。責任、これは負債のことですから、パウロは人々に対して負債がある気持ちになっていたのでしょう。負債を返済しなけけらばならないと思ったのでしょう。パウロは神の福音によって救われました。パウロの行いや努力によってではありませんでした。イエスが十字架で死んでくださったことによって、「罪人の頭」(Ⅰテモテ1:15)であると告白せずにはおれなかったパウロが赦されたのです。救われたのです。パウロは自分が喜んでいるだけではいけないと受け止めたのでしょう。福音を聞いたことのない人、福音を知らずにいる人に語ればその人も救われるのに、口を閉ざしたら救われる人も救われないのです。パウロにとってそれは負債になってしまうのでしょう。「私には、ギリシャ人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります」(1:14)これが福音伝達です。
キリストのからだであるわたしたちも霊の賜物を分かち合う親しい交わりを持ち、互いに励まし励まされて福音を伝えていく歩みをしましょう。負債を返していきましょう。