「ちから」ローマの信徒への手紙 1章16節~17節

 題を「ちから」にしました。「力」です。神の力です。パウロは「福音は神の力」であると、ローマの教会の人たちに書き送りました。ノーベル博士が1866年に発見したものに命名した「ダイナマイト」は、この16節の「神の力」から名付けたものです。

 「神の力」は旧約聖書では神を表わす語句です。旧約の神の民は神を力として体験したということです。430年の間エジプトに住んでいた神の民を神は「力強い手によってエジプトから導き出され」ました。(出エジプト12章-13章)出エジプトの後、神は海を二つに分けたのです。水は右と左に、かきとなり、海の中の乾いた所を民は進みました。神がエジプトと戦われたのです。(出エジプト14章)神の民がエジプトの手から救い出された時、主に向かって歌いました。「主は私の力、私の立て、私の救いとなられた」(出エジプト15:2)その後も民は神の救いを体験し続けます。声高らかに神を賛美する賛美の源は「神の力」です。

 新約聖書のイエスの時代は「奇跡」や「しるし」の中に神の力は表わされました。カナの婚礼で石の水がめの水がぶどう酒に変わりました。(ヨハネ福音書2:1-11)同じカナの町で死にかかっている王の役人の息子を助けました。(ヨハネ福音書4:46-54)38年も病気で苦しんでいる人を癒しました。イエスが「起きて、床を担いで歩きなさい」と言われると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだしたのです。(ヨハネ福音書5:1-9)

 奇跡によって何が表されているかというと、神の力が表されているのです。そして、それは今、ここに、生きておられる神がおられるという事実を明らかにしているのです。そのことのしるしなのです。「福音は神の力」であると記しているパウロにとって、福音は最も大きな奇跡を起す神の力なのです。罪人が救われて神の子とされ、神のいのちである永遠のいのちを与えられて新しい歩みをすることができるのは神のちからによって新創造されたからだと、パウロは受け止めていたのでしょう。「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です」(ローマ1:16)。マタイも福音書で、イエスの奇跡を集めて記しています。その奇跡集の中に自分の救いの体験を入れています。(マタイ福音書8章-9章)

 神の力を体験して知っているパウロだから「私は福音を恥としない」と、ローマの教会の人たちに言えたのでしょう。これはパウロの決意を表明したことばであると言えるでしょう。福音はあの時代の人たちにとって「恥ずかしい」ものでした。人々には「愚かなもの」(Iコリント1:18)であり、「つまずき」(マタイ福音書13:57)となるものでした。人々

は受け入れられなかたのです。今の時代もですが。アテネの人々はパウロを嘲笑いました。(使徒17:32)でも福音の力を知っているパウロは、「福音を恥としない」のです。福音は信じる者に救いを得させる神の力であるからです。

 キリストのからだであるわたしたちも神の力を知っています。知っているのですから「福音を恥としない」という決意をもって歩みましょう。