福音は罪深い人間を救う神の力です。福音の恵みを体験したパウロは、人間はどんなに罪深いのかを語りました。神を知らず、神を拒み、罪を罪と思わないで生活している人間の姿が暴露されました。(ローマ1章)パウロは罪人である人間の実態を明示しました。
人間の中には「わたしには罪がない」と思っている人もいます。「わたしは少なくともそういう人間ではない」と自認し、「あのような人たちとは違う」と人を裁いてしまいます。「すべて人を裁く者よ、弁解の余地はありません。あなたは他の人を裁くことによって、自分自身を罪に定めています。裁くあなたも同じことをしているからです」(ローマ2:1)。「このようなことを行う者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか」(ローマ2:3)。裁く人も裁かれる人と同じことをやっている、とパウロは指摘します。うわべを飾ってもだめなのです。神を知らない人、神を拒む人は、「正しい人」のように見えても「罪人」なのです。
人間の内面は人の目では奥底まで見通すことは難しいでしょう。でも見抜いたお方がいます。イエスです。人からは正しい人、人の上に立つ立派な指導者と言われる人たちの真の姿を指摘なさいました。「律法学者たちとファリサイ派の人々・・・あなたがたは杯や皿の外側は清めるが、内側は強欲と放縦で満ちている」(マタイ福音書23:25)。「あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている」(マタイ福音書23:27)。外見はどうであれやっていることは同じです。内にあるものは必ず外に表れます。「弁解の余地はありません」(ローマ2:1)。「他人を裁くことによって自分自身を罪に定めています」(ローマ2:1)。
「正しい者はいない。一人もいない」(ローマ3:10)。皆罪人なのです。
罪人には神の裁きが下ります。「神の裁きがこのようなことを行う者の上に正しく下る」(ローマ2:2)のです。「神の裁きを逃れられると」(ローマ2:3)思ってはいけません。神の裁きが下ることを心に留めるべきです。罪人は滅びます。そのような現実の中で、パウロは神の慈愛に目を向けさせます。神は人間をいつくしみ愛してくださっています。その神は慈愛によって罪人が自分の罪に気づいて悔い改め、神の救いに与れるようにしてくださったのです。神の慈愛のゆえに滅びに向かっている罪人に救いの道が備えられたのです。人間をいつくしみ愛してくださる神は、悔い改めて神のところへ帰ってくるのを耐え忍びながら待っていてくださるのです。寛容とはそういうことなのです。パウロは記しています「その豊かな慈愛と忍耐と寛容」(ローマ2:4)。慈愛の神は人間を罪から救いだして新創造し、いままでとは違う人生を歩めるようにしてくださるのです。
わたしたちはこのことの証人です。神の豊かな慈愛と忍耐と寛容をしっかりと受け止めて新しく歩み出しましょう。