「特別な人」ローマの信徒への手紙2章17-24節

 人間を分類しようとすれば幾つもの分け方があるでしょう。例えば男性と女性、人種によって分けるとすれば三つ、あるいは五つになるでしょうか。まだいろいろあるでしょう。聖書の中では人間を二つに分けています。ユダヤ人と異邦人です。ユダヤ人は神のあわれみによって特別に選ばれた選民、主なる神の民です。異邦人はユダヤ人以外の人たちです。選民であるユダヤ人が神に選ばれた証拠は「律法」と「割礼」です。ユダヤ人はこの二つをもって「選民」であることを具体的に表現したのです。ですから、これなしにユダヤ人にはなれないのです。

 「律法」はモーセを通して神から与えられたものです。神から直接に与えられたことが重要なことなのです。「律法」にはどのように生きるべきかが書き記されています。「これは、あなたがたの神、主があなたがたに教えられた戒め、掟と法であって、あなたがたが・・・行うべきものである・・・あなたは聞いて、守り行いなさい。そうすれば幸せになり、あなたの先祖の神、主が告げられたとおり、乳と蜜の流れる地であなたがたは大いに増える」(申命記6:1-3)。

 律法によって神の御心を知り、律法によって何が大切かを知るユダヤ人は、神を知らない他国の人々に教え、指導する立場にあると受け止めるのです。そして実際にやるのです。「あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、御心を知り、律法に教えられて何が大切かをわきまえています・また律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています」(ローマ2:17-20)。ところが、ユダヤ人たちは律法を生きていなかったのです。律法は「行うべきもの」です。律法に「聞いて、守り行う」べきなのに彼らの生活は違っていました。「他人には教えながら自分には教えない」、「盗むなと説きながら盗む」、「姦淫するなと言いながら姦淫を行う」、「偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らす」、「律法を誇りとしながら、律法に背いて神を辱めています」。(ローマ2:21-23参照)そのようなユダヤ人を、イエスは「偽善者」だと言われました。(マタイ福音書6:2,5,16,7:5,15:7等参照)気をつけましょう。

 割礼はアブラハムから始まりました。主なる神に従い、神と共に歩んだアブラハムの生涯を神は祝福すると約束します。アブラハムはその神に従う決意をして神と契約をします。それが割礼です。(創世記17:1-14参照)アブラハムにとって割礼は服従のしるしです。モーセとその家族も受けました。(出エジプト4:24-26)イエスも受けました。(ルカ福音書2:21参照)ところが、ユダヤ人は割礼を受けながらその心、神への服従がどこかへいってしまいました。大事なのは内面です。彼らは「律法の文字と割礼を受けながら、律法に背いている」(ローマ2:27)生活をしていたのです。パウロはそこを指摘します。「あなたが律法を行うなら、割礼は役に立つでしょう。しかし、律法に背くなら、あなたの割礼は割礼を受けていないのと同じです」(ローマ2:25)。割礼は神に従う態度の表現なのです。

 キリストのからだであるわたしたちは、悔い改めてイエスを信じ、洗礼を受けてイエスと一つにされ、新しい歩み、イエスと同じ歩みをする新しい人にされました。聖書を読み、主なる神の語りかけを聞き、御心に従って歩み、生きて働いておられる神を表していきましょう。