「そなえもの」ローマの信徒への手紙3章21-26節

 題を「そなえもの」にしました。「供え物」のことです。一般的には供物のことで、神仏に供え奉るもののことです。しかしパウロはそのような意味でこの言葉を使用していません。パウロはローマの信徒への手紙で、「あがないの供え物」(3:25口語訳)と記して唯一の神の恵みを証言しています。「あがない」というのは代価を払って買い取る意味もありますが、パウロはイエスの十字架の出来事を「あがないの供え物」(口語訳)と表現しているのです。その供え物は「神の義を示す」(口語訳)ものです。

 「神の義」は「神の救い」と言い換えることができます。その神の救い、すなわち神の義は「福音の内に・・・啓示されている」(1:17)とパウロは語りましたが、「しかし、今や、律法を離れて、しかも律法と預言者によって証しされて、神の義が現されました」と3章21節に記しています。「正しい者はいない。一人もいない」(ローマ3:10)のです。「律法を行うことによっては、誰一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(ローマ3:20)。そこで、預言者たちはやがて神がお遣わしになる救い主によって神の義、神の救いの道が開かれると語りました。そしてついに神の義、神の救いが現されたのです。それがイエス・キリストの十字架です。

 口語訳では「あがないの供え物」と訳されていますが、聖書協会共同訳では「贖いの座」と訳されています。「供え物」や「座」と訳されていますが、それは「贖罪所」(出エジプト25:17)のことだと言われています。贖罪所とは契約の箱の「蓋」のことです。契約の箱は聖所に置かれていました。聖所は幕で二つに仕切られていて、奥の方は至聖所という所で、そこに契約の箱が置かれていたのです。それは神がおられるしるしでした。その契約の箱の蓋の上に、民の罪を神に赦していただくために大祭司が持ってきた動物の血を注いだのです。それが贖罪所です。パウロはカルバリ山の十字架こそが「その血による贖いの座、すべての人の罪が赦される場所だと言うのです。イエスの十字架によって全ての人の罪の贖いがなされたことをパウロは証言しているのです。

 救われる道が開かれた今、わたしたちに求められているのは「信仰」です。「人が義とされるのは・・・信仰による」(ローマ3:28)のです。神は割礼のある人もない人も「信仰によって義としてくださるのです」(3:30)。その信仰は「イエス・キリストを信じる信仰」(3:22口語訳)です。それは、イエスの十字架の贖いがわたしのためであったことを信じる信仰です。わたしたちが信じるのです。信仰は個人的なものです。ですが、ここにはもう一つ、「イエスの真実」という意味が含まれています。イエスの真実によって救われるのです。このことの実例がザアカイの救いの出来事と言えるでしょう。(ルカ福音書19:1-10参照)ザアカイはイエスを家に迎え入れて変わりました。イエスは彼に「きょう、救いがこの家にきた」(口語訳)と言われました。でもザアカイがイエスを迎え入れることができたのは、「失われたものを捜して救うために」イエスがザアカイのところへ来てくださったからです。失われたものを捜して救うイエスの真実が、ザアカイがイエスを信じる信仰に先行しているではありませんか。

 信仰によって救われたわたしたちは、これからもイエスの真実、神の真実に信頼して支えられて歩みましょう。