「無益な者」ローマの信徒への手紙3章9-18節

 神に選ばれた民であるユダヤ人たちは「律法と割礼」を持っていました。この二つが「選民」であることの証明でした。この二つを持っていることは、民が神の御心に従って生活していることを表すものでしたが、民の現実は持っているだけで神に従う生活ではありませんでした。律法は行うべきもの、割礼は服従のしるしなのに、異邦人と同じ生活でした。このことによって異邦人同様ユダヤ人も罪人であることがあきらかにされました。「正しい人はいない。一人もいない」(ローマ3:10)のです。「ユダヤ人もギリシャ人も皆、罪の下にあるのです」(ローマ3:9)。ここで全人類が罪人であることをパウロは指摘したのです。パウロが勝手に言っているのではありません。このことは神のことばである旧約聖書がすでに語っていることをパウロは記します。「次のように書いてあるとおりです」(ローマ3:10)と旧約聖書のことばを引用します。

 人は皆、罪を犯しました。「正しい人はいない。一人もいない」と、旧約聖書のことばを引用してパウロは人間の罪深さを明らかにしています。(詩篇14:1-3,53:1-3参照)全人類は「罪の下にある」から罪を犯すのです。罪の下にあるというのは、罪の影響を受けているといった程度のことではないようです。百卒長の記事を読むとよくわかります。(マタイ福音書8:5-13,ルカ福音書7:1-10参照)。百卒長が頼りにしていた僕が病気で死にかかっていました。百卒長はイエスに「助けてほしい」と懇願するのです。その時に、百卒長は「ただ、お言葉をください。そうすれば僕はなおります」(マタイ福音書8:8)とイエスに告げるのです。その理由は、百卒長も「権威の下にある者」だからだと話します。「行け」と言えば行き、「こい」と言えばきますし、「これをせよ」と言えばしてくれるのです。言った通りになるのです。これが「罪の下にある」ということです。罪の下にあるというのは罪に牛耳られていることです。意のままに操縦されてしまっていることです。

 そのことによって人は「無益な者」になってしまいました。「無益」というのは「腐ってしまったミルク」のことだそうです。腐ったミルクは飲めません。飲めないだけでなく害になります。そういう人間の口は「呪いと苦味に満ち」ています。「舌で人を欺き」「唇の裏には蛇の毒が」あり、その「喉は開いた墓」なのです。(ローマ3:13-14、詩篇5:9,10:7,140:3参照)人は口によって他者を傷つけ、人間関係を壊し、地上に破壊と破滅をもたらすのです。無益な人の足は「血を流そうと急ぎ、その道には破壊と悲惨があり、平和の道」を知りません。(ローマ3:15-17,イザヤ59:7-8参照)そこにあるのは破壊と悲惨です。無益な人の「目には神への畏れがない」のです。(ローマ3:18、詩篇36:1参照)不敬虔です。それが目に、顔に現れてくるのです。「いかにもそういう顔をしている」とある人が語っていました。これが罪の下にある人の姿なのです。そしてそれは「自分の姿である」とパウロは受け止めているのです。

 これは「わたしたちの姿でもある」と受け止めることができる人は幸いです。辛いことです。しかし、辛さの先には喜びがあります。無益な者になってしまっているわたしたちを罪から解放して救い出し、神と共に歩む新しい歩みを造り出す福音が備えられているからです。福音の力を体験できる時だからです。