パウロはローマの信徒への手紙で、イエスの十字架は贖罪所(贖いの座)であることを証言しました。いままでは民の罪の赦しのために贖罪所に動物の血を注いでいました。注がれることによって赦しは成立したのです。それ以外の場所では赦されませんでした。イエスの十字架は正にそれでした。それを明示するかのように、イエスが十字架で息絶えた時、神殿の幕が裂けました。「イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息をひきとられた。すると見よ、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた」(マタイ福音書27:51口語訳)。神と人とを隔てるものが取り除かれたのです。
今朝はそのイエスの十字架のことばに目を止めたいのです。この礼拝に、すでに亡くなられた方々を偲んで、わたしたちは集まっています。教会に納骨されている聖徒に思いを馳せていた時、御遺族そして教会のひとりひとりに語るように示された聖書のことばが「一緒にいる」(ルカ福音書23:43)でした。これはイエスが十字架の上で語られた言葉です。
イエスと一緒に二人の犯罪人が十字架につけられました。十字架につけられたイエスは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」と、十字架につけた者たちのためにとりなしの祈りを父なる神にささげるのです。わたしたちのイエスは祈りをもって公生涯を始められ(ルカ福音書3:21-22参照)、祈りをもって歩み(ルカ福音書5:12-16参照)祈りをもって世を去りました。(ルカ福音書23:32-46参照)これがイエスの生涯でした。イエスによって人は新創造されますが、それは祈りなしではやれない人に変えられるのです。
イエスがとりなしの祈りをささげているのに、十字架の周辺にいた人々は嘲笑うのです。はりつけにされた犯罪人の一人がイエスを罵ると、もう一人の犯罪人がそれをたしなめて、イエスに語りかけるのです。「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」(ルカ福音書23:42)。その時に返ってきた言葉が「一緒にいる」でした。(ルカ福音書23:32-43参照)誰とどこにいるのか、イエスと一緒に楽園にいるというのです。「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」(23:43)。イエスの口から出てきた言葉です。
人は死ぬと陰府へ行きます。イエスも死んだ時陰府にくだりました。「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり」(使徒信条)。そしてイエスの復活を予見したダビデが「あなたはわたしの魂を陰府に捨ておかずあなたの聖なる者を朽ち果てさせない」(使徒言行録2:27)と語られたように、イエスは甦り、あの犯罪人のひとりを楽園へ連れて行ったのです。すでに亡くなられた教会の聖徒達もそこにいるのです。これはわたしたちにとって大きな慰めであり力であり希望です。楽園は天国ではありません。何が違うか、「からだ」がまだないのです。からだはイエスの再臨の時に与えられ、主なる神が備えてくださる新しい天と新しい地で永遠に生きるのです。
神のこの約束を信じ、信仰によって生き抜いた多くの先輩たちは、今わたしたちを雲のように囲んで応援してくださっています。それゆえ、わたしたちも「信仰の導き手であり完成者であるイエスを見つめながら、走りましょう」(ヘブライ人への手紙12:1-2)