「人は信仰によって救われる」、とパウロはローマの信徒への手紙で語ってきました。パウロはその証人として、ユダヤ人が尊敬しているアブラハムとダビデを旧約聖書から引き出してきます。彼らも信仰によって義とされた人たちでした。
「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」(ローマ4:3)。これは旧約聖書の創世記5章6節の引用です。アブラハムの妻である「サライは不妊で、子どもができなかった」(創世記11:30)のです。そのアブラハムに神は子を与える約束をするのです。アブラハムを外に連れ出して、「天を見上げて、星を数えることができるなら、数えてみなさい」(創世記15:5)、と語りかけるのです。神はアブラハムにはっきりと「あなたの子孫はこのようになる」と言われました。その時、アブラハムは神のことばを信じたのです。アブラハムは神を信じたのです。神は「それを彼の義と認められた」のです。(創世記15:1-6参照)
「彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません」(ローマ4:2)。アブラハムは自分の努力や行いによって神の義、すなわち神の救いを勝ち取ったのではありません。神から与えられもの、「恵み」なのです。努力や働きによって得るのは「報酬」です。努力も働きもなく、義に価しないどうしようもない者であっても切り捨てられずに付与されるもの、それが恵みです。
アブラハムは神のことばに従って生まれた地を出て親族や部族と別れ、神だけをあてにして信仰によって歩んだ人です。(ヘブライ11:8-12参照)このアブラハムに対しても、神は彼が信じて歩めるように働きかけておられたのです。創世記12章1節に、「主は・・・言われた」とあり、15章1節に「恐れるな・・・私はあなたの盾である」と語りかけて励まし、恐れの中にあるアブラハムが信じることができるようにしておられる神の真実が先行しているのを見ることができます。このことによって「信仰によって義とされる」ことが具現するのです。
「同じようにダビデも、行いがなくても神に義と認められた人」(ローマ4:6)です。ダビデは王でした。「ダビデ」には「神に愛される者」という意味があるそうです。彼は羊飼いから王になった人です。神が王にしました。ダビデほど幸せな人はいないでしょう。ですが、彼も罪を犯します。彼の部下の妻を奪って自分の妻にしてしまうのですが、その部下を戦の最前線に出して討ち死にさせるのです。(サムエル下11:1-7参照)そのことを預言者ナタンに指摘されると、ダビデはナタンの前にひざまずいて罪の告白をして悔い改めの祈りをするのです。(サムエル下12:1-15、詩篇51参照)神はそのダビデの真実の告白を受け入れて罪を赦してくださったのです。その時、ダビデの口から出てきたことばが「不法を赦され、罪を覆われた人は幸いである。主に罪をとがめられない人は幸いである」(ローマ4:7-8、詩篇32参照)なのです。幸せなことは神によって罪を赦されることなのです。これ以上の幸せはない、とダビデは告白するのです。砕かれ、罪を告白して悔い改める者を神は救われるのです。
聖書の神はそういう義なる神なのです。そして神の義は福音のうちに、イエス・キリストのうちに現されたのです。人は信じることによって義とされるのです。義とされていることを証明してくださるのも神です。悔い改めたって・・・と、批判する人がいたとしても神ご自身がそれを退け、義とされていることを証明してくださるのです。