「すべての人のために」ローマの信徒への手紙4章9-12節

 パウロは「信仰によって義とされる」と語ってきました。決して行いや宗教の儀式(割礼)を守ることによって救われることはありません。人は信仰によって義とされる(救われる)ことを、パウロは証してきました。パウロはそのことの証人が旧約聖書に記されているアブラハムなのだと語りました。そしてそれはユダヤ人だけでなく、異邦人も含めたすべての人のために書かれていることを、パウロはここに明示しています。

 アブラハムという人は、「子どもが与えられる」という神から与えられた約束を信じて待ち望みました。そしてついに約束通り男の子が与えられて、その子孫が夜空の星のようになっていったという生涯でした。「彼はこの神、すなわち、死者を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのです。彼は、望みえないのに望みを抱いて信じ、その結果、多くの国民の父となりました」(ローマ4:17-18)。これがそのアブラハムの信仰でした。アブラハムに神が約束してくださった時、すでに高齢者でした。「およそ百歳となって、自分の体がすでに死んだも同然であり、サラの胎も死んでいることを知りながらも」(ローマ4:19)信じたのです。神は死人を甦らせるお方であると信じたのです。約束通り子が与えられ、イサクと命名しますが、後にその子イサクをいけにえとして献げるように神が求めるのです。(創世記22:1-9参照)この時、アブラハムは献げる約束の子イサクを必ず神は甦らせて返してくださると信じたのです。(ヘブライへの手紙11:17-19参照)これがアブラハムの信仰です。

 「彼が義と認められた」と書いてあるのはアブラハムのためだけではありませんでした。「私たちのため」でもあったのです。(ローマ4:23-24参照)アブラハムが死人を生かすことができる神を信じ、義と認められ救われたように、どんな人でも主イエスを死者の中から復活させた神を信じるなら義と認められるのです。救われるのです。死は人間にとって大きな問題です。死なない人などいません。死んだけれど生きかえりましたという人もいません。しかしその死から救いだしてくださるのが神なのです。アブラハムは人間を死から甦らせてくださるのが神であり、神はそういうお方であると信じたのです。教会も同じように死人を生き返らせることのできる神を信じるのです。イエスは人間の罪の全てをご自分の身に引き受けて十字架の上で死んでくださいました。そのことによって、神は罪をこのように罰することを示されたのです。罪の身代わりとなって罰せられたことを受け取った神はイエスを甦らせたのです。その神を信じる人を、その人がどのような人であっても神は義としてくださる、救ってくださるのです。アブラハムはそのことを明示しているのです。

 アブラハムが義とされたのは割礼を受ける前でした。(創世記17章参照)アブラハムの割礼は「印」です。義とされた証印です。このことは、アブラハムが割礼のある人の父となり割礼のない人の父となったことを表しているのです。(ローマ4:11-12参照)ですから、アブラハムが信じたようにイエスを死人の中から甦らせた神を信じる人は救われるのです。ユダヤ人も異邦人もです。アブラハムはそのことの証人なのです、割礼は今日の洗礼にあたるものです。洗礼は救いを与えるものではなく、信仰によって義(救い)とされたことの「しるし」です。信じる信仰が大切なのです。大事なのです。「人が義とされるのは・・・信仰による」(ローマ3:28)のです。