人は信仰によって義(救い)とされます。義とされた結果、その人に与えられるものは平和と平安です。パウロは「神との間に平和を得ています」(5:1)と語っています。
パウロは「私たちがまだ弱かった頃・・・まだ罪人であったとき・・・敵であったとき」(ローマ5:6,8,10)と告白しています。これが人間なのです。人は弱い者なのです。だから罪を犯すのです。それは神と敵対関係にあるということなのです。人は無意識に神を敵視しているのです。イエスのお話を思い出します.ある人に息子が二人いました。弟が父親から財産を分けてもらい家を出るのです。(ルカ福音書15:11-13参照)父親との生活より自分一人の生活を欲したのでしょう。それが罪です。「敵であったとき」で浮かんでくるのはパウロの生活です。「私はかつてユダヤ教徒としてどのように振る舞っていたかは、あなたがたが聞いているとおりです。私は神の教会を徹底的に迫害し、破壊しようとしていました」(ガラテヤ1:13、使徒7:54-8:3参照)。パウロは神の言い付けを守ろうと努力した人です。その熱心が教会は間違っていると主張し、教会を荒し、男女を問わず牢へ送りました。処刑された人もいました。神は教会を介して人々に語りかけておられたのですから、パウロのしていることは神に敵対する行為といえるでしょう。神から遠く離れてしまっていたパウロにはそれは分かりませんでした。パウロは的外れの生活をしていたのです。これが神から離れている人間の姿です。人は正しいことをしていると自負しながらイエスを辱かしめ、十字架につけてしまいました。このことはユダヤ人がやったことですが、神を離れて歩んでいる人の神に対する態度でもあるのです。そこには「神との平和」はありません。
「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました」(ローマ5:8)。神は私たちに「愛を示されました」。イエスの十字架によって示されたのです。まだ私たちが罪人であったときに示されました。神は罪人の私たちを愛してくださっていたのです。この愛してくださっている神の方から救いの手を差し伸べてくださったのです。それが人となられたイエスです。神が送り込まれた救い主イエスです。イエスは人間の罪を背負い、十字架の上で神に罰せられました。神はその十字架を受け入れ、罪人たちの罪を赦して受け入れてくださるのです。「信じる者」を受け入れてくださるのです。「私たちは信仰によって義とされた」(ローマ5:1)。
義とされた人たちに与えられるのが「平和」、神との平和です。「私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ています」(ローマ5:1)。平和であるから、神が語ってくださるのです。こちらも神に語りかけることができるのです。交わる者に内に生ずるのが「平安」です。「あなたがたは世で苦難がある」と弟子たちに語られたイエスは、あなたがたは「わたしによって平和を得る」とも語られました。(ヨハネ福音書16:25-33参照)「平和」は口語訳聖書では「平安」と訳されています。「ヨハネ」と「ローマ」は同じことばが使われています。個人的に使用するときは「平安」、他者との関係で使用する時は「平和」になります。神との平和を得、心に平安を持ち、人と平和に過ごす道を神はイエス・キリストによってわたしたちに備えてくださったのです。
罪人が義とされた結果、神との平和を得ます。救いの根本は神との正しい関係です。これがキリスト教の救いです。