人はイエス・キリストによって義とされた結果、神との間に平和を得ているとパウロは証しました。人は罪によって神の敵となっていました。でも身代りとなって死んでくださったイエスによって人は罪を赦されて神と和解し、「神との間に平和を得ています」(5:1)と言えるようになります。この「平和」という言葉は満ち足りていることを表す「シャローム」という言葉からでてきている言葉なのです。この平和は神の民とされた者たちに、神がその生涯の保障として与えられたものなのです。パウロは神の平和がどんなに豊かなものであるかをここに明らかにしています。
「今の恵み」(5:2)がその一つです。口語訳それから文語訳は「いま立っているこの恵み」、もう一つの古い訳は「今居ところの恵み」です。その恵みへ「導き入れられ」たのです。救いの神の賜物です。自分で獲得したものではないのです。「平和」の中へ入った時、「恵み」が見えてきたのです。救いの神が導いてくださる恵みの生涯は「神の栄光にあずかる希望」にまで広がっていくものでした。信じる者は新しく生まれ変って、古い肉体を持ったままですが、神のいのちを与えられて神の子とされ、神の家族の中へ迎え入れられこの地上での生活をします。しかしやがて死に支配されないからだに変えられて「天にあるふるさと」(ヘブライ11:16)、神の国(天国)で神とその家族が永遠に生活する希望、「神の栄光にあずかる希望」をもって歩むのです。それが今の恵み、いま立っている恵み、今居る所の恵みなのです。
恵みに居る人、そこに立っている人は「苦難」によってその人が研かれていくのです。苦難の中を通ったから分かることがあります。身に付くものがあります。苦難の中で忍耐が生まれたからです。忍耐は苦難の中で生まれてくるのです。耐え忍んだ人だけが身に付けるのです。そういう人に希望が生まれてくるのです。苦しんでいる人が希望をもって突き抜けた生き方をしている人に接すると、光が与えられ希望が見えてくることがあります。希望を生む人にもなるのです。そのような人にとって苦難は誇りになるのでしょう。「苦難をも誇りとしています」(5:3)と告白しています。こういうものを神との間に平和を持っている人は持っているのです。
さらに「神の愛が私たちの心に注がれている」(5:5)と証しています。苦難の中で希望をもって耐え忍んで歩めるのは神の愛に支えられ強められているからでしょう。心に注がれ、その人が愛されていると自覚できる神の愛は、イエス・キリストの十字架の出来事によって表された愛です。しかも「私たちがまだ弱かった頃、罪人、敵であったときに明示された愛です。その愛、永遠に変ることのない愛です。パウロ自身、どのような苦難にでくわしても「愛してくださる方によって勝って余りあります」(ローマ8:37)と語っています。これが神との間にある平和なのです。
最後に「神を誇りとしています」(5:11)と記しています。口語訳は「喜ぶ」です。平和を得ている人は神ご自身を誇り、喜ぶのです。神にしていただいたことではないのです。物を与えられたから喜ぶのではないのです。神が喜びになっている、誇りになっているのです。これはその人の力になるのです。(ネヘミヤ8:10参照)
パウロはこういうものを「平和を得た」人は持っていると言うのです。「平和(シャローム)」とはそういうものですと証しているのです。わたしたちも持っているシャロームの中で神を喜びつつ生活しましょう。