今日は「ふたりの人」の題で、ふたりの人物に注目しましょう。ふたりの人とはアダムとイエスです。アダムは神によって最初に造られた人間です。(創世記1章から3章参照)もうひとりはイエス・キリストです。パウロは「私たちは信仰によって義とされ・・・神との平和を得ています」(5:1)と語りました。その平和、救いの恵みがどのような手順を踏んでわたしたちに与えられるようになったのかを証しているのがこの箇所(5;12-21)です。「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです」(5:19)に目を向けましょう。「一人の人の不従順」はアダムのことです。「一人の従順」はイエス・キリストのことです。
最初に造られたアダムは神の命令を破って神に対して罪を犯しました。「園のどの木からでも取って食べなさい。ただ善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる」と神が言われたのに、アダムは食べてしまったのです。「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだ」(5:12)のです。ひとりの人によって全人類は汚されてしまったのです。汚染されたのです。「罪がこの世に入り」の罪は単数で書かれています。「過ち・・・一人の過ちによって」(5:15)の過ちは実際にやってしまった罪のことを表わすことばが使用されています。複数で表わすことができる語です。罪に汚染された人類はアダムのように過ちを犯し死んでしまいます。旧約聖書の創世記4章では殺人が起こり、5章にはアダムの系図が記載されていますが、何年生きても「そして彼は死んだ」と記されています。罪に汚されて罪人となってしまった人間は、過ちを犯し、死んでしまうのです。
罪に汚されてしまった人間を救うことのために、その罪の解決のために神は新しい計画を立てられたのです。神が人になる、人間になって罪に勝利して過ちを犯さず人間の代表者として神の前に立ってくださるという計画です。計画は実行されました。神が人となって生まれ、イエスと名付けられたあの出来事がそれです。イエスは過ちを犯しませんでした。悪魔から試みを受けたけれども退けました。(マタイとルカ福音書4章、マルコ福音書1章参照)悪魔はイエスを離れていきました。悪魔を退けて常に神と交わり過ちを犯すことなく生き抜いてくださったのがイエスの生涯でした。「一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです」(ローマ5:18)。「正しい行為によって」とあります。イエスの死が人類の罪の身代わりになれたのは正しい歩みをして十字架で死んでくださったからです。「永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられた」(ヘブル9:14口語訳)とあるように、聖霊の守りと助けがそこにはありました。それだけ神と親しくし信頼し歩んだということでしょう、イエスは。一人の人の不従順によって罪が入り、その結果死が入ってきたけれど、イエスというひとりの従順によって義がもたらされ、永遠のいのちが与えられるようになったのです。イエスによって新しい道が開かれました。「一人の従順によって多くの人が正しい者とされる」道です。
与えられた新しい神のいのち、永遠のいのちを得ているわたしたちは、人となられた神に感謝しつつ、「神の栄光にあずかる希望」をもって歩み続けましょう。