「ひとつに」ローマの信徒への手紙6章1-5節

 「キリスト・イエスにあずかる洗礼を受けた私たちは皆、キリストの死にあずかる洗礼を受けたのです。私たちは、洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者になりました。それは、キリストが父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためです」(ローマ6:3,4)。今日はパウロのこの証言に注目しましょう。教会の人たちはイエス・キリストとひとつにされているとパウロは語っているのです。クリスチャンとはそういう人たちだと言うのです。

 イエス・キリストを信じて救われた人は洗礼を受けます。洗礼は信じて救われた人の信仰の告白であり証です。身体を水の中に沈めるのが洗礼です。教会ではこの洗礼式をします。それはイエスがするようにおっしゃったからです。「あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたすべてのことを守るように教えなさい」(マタイ福音書27:19-20)。この洗礼というのは「キリスト・イエスにあずかる」(ローマ6:3)ことなのです。「あずかる」というのは「イエスにまで」ということなのでキリスト・イエスと生命的に結合、一体となる、ひとつになることなのです。それが洗礼なのです。

 「イエスにあずかる洗礼を受けたのです」と訳されていますが、「洗礼させられた」と訳されてよい書き方なのです。受動態で書かれています。ですからキリスト・イエスに合体させてくださるのは神なのです。神によってキリスト・イエスと合体、ひとつにされたのがクリスチャンなのです。

 キリスト・イエスと合体させられたというのは、キリストの死に合体させられたことなのです。「キリスト・イエスの死にあずかる洗礼を受けたのです」(5:3)。イエスの十字架に合体させられたのです。イエスの十字架、あれは洗礼を受けたその人の十字架なのです。その人の罪は罰せられ罪に死んだのです。「罪に対して死んだ私たち」(5:2)とパウロは証しています。これは洗礼を受けたわたしたちの証でもあります。洗礼とはそういうものなのです。

 さらに「私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ」たのですと告白しています。洗礼によるキリスト・イエスとの合体は「葬り」にまで及んでいます。葬りを大事なこととして受け止めているのです。葬りは死の証明です。教会の信仰告白でもあります。使徒信条の中で「死にて葬られ」と告白しています。イエスの死が葬りによって証明されたように、洗礼によってキリストの死に合体された人の死の証明は葬りによって明らかに示されます。墓の前でどんなに褒めても何の応答もありません。たくさん悪口を言っても返応しません。それが葬られたということです。これは洗礼を受けた人の日常の姿です。キリストとともに葬られている、これが洗礼を受けた人の現実なのです。

 キリストと共に葬られたから、キリストの「復活」にも合体させられるのです。「キリストが父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きる」(5:4)のです。「新しい命」とは「命の新しさに生きる」、「命の新しさの中に歩む」ことなのです。いままでの命ではないのです。別のもの、質を異にする命、復活の命です。復活したイエスに合体、復活したイエスの命の新しさの中に歩むのです。イエスの心を心とし、イエスが歩まれたように歩む命の新しさの中に歩むのです。ひとつにされているとはそういいうことです。