パウロは福音を恥としませんでした。福音は信じる者を救うからです。パウロはこの手紙で、その福音のことを語ってきました。福音の中心は十字架でした。イエス・キリストの十字架です。イエス・キリストは歴史的には逮捕されて処刑されました。しかし、共に十字架の刑に処せられた二人の犯罪人のうちのひとりがもうひとりの犯罪人を咎めて言うのです。「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」(ルカ福音書23:41)。十字架の下にいた百人隊長も「本当に、この人は正しい人だった」(ルカ福音書23:47)と言って神を崇めるのです。イエスの十字架に接した人の声を聞き流してはいけませんが、イエスは自ら十字架の刑を受け入れたのです。イエス・キリストは「わたしたちのために死んでくださった」(ローマ5:8)のです。「人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっています」(ローマ3:23)。ですから、イエス・キリストは人間が犯した罪のために、その罪を全部背負って死んでくださったのです。罪人であるわたしたち人間の身代りとなってくださったのがイエスの十字架です。わたしたちの代りに神に罰せられてくださったのです。「神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた」(ローマ3:25口語訳)のです。「あがない」は身代りのことです。「その血」とは十字架で流された血のことです。「それで今や、私たちはキリストの血によって義とされたのです」(ローマ5:9)。これがイエス・キリストの十字架でした。
十字架は身代りだけではありませんでした。わたしたち人間はアダムが罪を犯してしまったために罪に汚染されてしまいました。ですから罪を犯してしまうのです。罪を犯してしまうものを内に持っているのです。パウロは告白しています。「私は・・・罪の下に売られています。・・・自分が望むことを行わず、かえって憎んでいることをしているからです。もし、望まないことをしているとすれば・・・それを行っているのは、もはや私ではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(ローマ7:14―17)。これは罪を犯させてしまうものを持っていることを語っているのです。ここでの罪は単数形で書かれています。この罪(単数)があるから罪(複数)を犯してしまうのです。パウロは証言します。「わたしたちの古き人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪の体が無力にされて、私たちがもはや罪の奴隷にならないためである」(ローマ6:6)。「古き人」とは罪を犯させてしまう罪(単数)のことです。その古き人がキリストとともに十字架につけられてしまったのです。この十字架は身代りではなく「磔殺」です。はりつけにして殺した、つまり「キリストと共に死んだ」と言うのです。「死んだ者は罪から解放され」(ローマ6:7)、「罪の奴隷にならない」(ローマ6:6)のです。これがイエスの十字架のもう一つ側面なのです。身代りであると同時に磔殺の十字架なのです。
パウロは十字架の恵みを深く「知」(ローマ6:6)らされました。そして「信」(ローマ6:8)じたのです。「認」(ローマ6:11口語訳)めたのです。「認める」は勘定することです。聖書協会共同訳では「考えなさい」と訳されています。わたしたちの罪の身代りとなってくださったイエスの十字架によって罪をゆるされました。それだけでなく、罪を犯させてしまう古き人はイエスと共に十字架で死んでしまいました。これがイエス・キリストの十字架です。このことを知って、信じて、認める、すでに死んでいる神の恵みの事実を計算に入れて歩むべきです。パウロは奨励します。「自分自身を・・・自分の五体を義のため道具として神にささげなさい・・・あなたがたは・・・恵みの下にいるからです」(ローマ6:14)。